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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    芸とは?芸術とは? 

    JT
    ときにもの思いに耽る日もあります。

    いつもいつも元気溌溂で人様と接してばかりいるなんてことは、本当はないんだと思っています。なんだかいかがわしくさえ感じます。
    いえ、引き続き坂路調教は続けていますし(1日分をこなせば、汗をかいた体重は1.5Kg ほど絞れ、水分をとると戻りますが、無駄な食欲が次第に消えてきて、夜にショットグラス3∼4杯のウィスキーを飲んでいても、アッという間に5Kg のダイエットはできました。でもまだ目標の半分です、ハイ)、鬱症状に見舞われているわけではありませんから。

    で、ある日、ベッドに横になっていると、頭の中に唐突に「芸」という言葉が浮かびました。ついでに「芸術」なんて単語も。

    その昔から、「芸」とは何か?とか「芸術」とは?とか、さんざん先人たちに語られてはいますが、決定打の解答はいまだ見つかってはいないようです。見つからないからいいのかも知れませんが・・・。

    で、私も考えてみました。咄嗟に浮かんだのが、「芸」という言葉の成り立ちでした。草かんむりに云うという構成で「芸」という言葉になります。草かんむりの草の意味を、民草=大衆・無数の人々などとイメージすると、「芸」とは、無数の多くの人々に物言う行為となります。そこで語られるものとは、作品に関わる力でしょう。

    となると、「芸」とは、「無数の人々に語るべき価値あることを語ること」というような意味になります。「芸術」はそれを語る「術=すべ」となる方法なのでしょう。

    そう考えると、かつて古代人たちが「芸」という言葉に託した意味を知ることもできます。卓越したイメージだったと言えるでしょうね。

    おそらく問題なのは、古代人から本来託された意味を、現代人たちがどれほど担っているかということです。

    ともすれば、アメリカ型資本主義に揉まれざるを得ない現況では、芸=商売となり、術=駆け引きや値踏みということになりがちです。

    資本主導の商業主義では、多くの場合、人々の物欲の達成度が人生の目標となりかねません。

    私自身は、「芸」が培って育てる作品というものは、さもしくあざとい商行為によって生み出されるものとは思えないのですが、さてどうでしょう?

    でもまあ、こんなことを考えていると、すぐに世間はお座敷のかからぬその他大勢の芸者衆扱いとしてきますが、どうせ一度きりの人生なら、お座敷に呼ばれて嬉しい相手に尽くそうとすることこそが、多分作り手の意地と矜持なのではないかと思うのです。嬉しくない相手にベェッと舌を出す覚悟こそ「芸」に生きる者の粋なのではないでしょうか?

    そんな結論が出た頃には、私はぐっすりと眠りについていました・・・。

















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    category: 異化する風景

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