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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    My 「錦旗」 

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    初めて、見よう見まねで鉛筆書きから駒字を書いてチャレンジしたMY「錦旗」が、何とか漆が固まって使えるようになりました。

    勿論下手糞で、誇るものは何もありませんが、唯一胸を張れることがあるとすれば、こんな形でとにかくやってみると、そうか「錦旗」という駒書体は、こんな個性があるんだというようなことが、明確になってきたということでしょう。でも、それを作ることで表現できる段階にないことだけは思い知らされました。

    自分で書いた文字ですから、何となく目に馴染んで、イラつくこともありません。しかし、いずれ飽きて、もっといい「錦旗」が欲しくなるのかも知れません。そのときは、自分自身の求めたい世界の延長線上にいる、きちんと主張を持って表現に挑んでいる駒師さんの名品を手に入れるしかないのでしょうね。作品は、作り手の「オレは、これをこうやって作りたいんだ」という魂の叫びが伝わってくれば、それは良いものとなります。

    でも、人からやらされてしまった作りものは、多くの場合、馬脚を現してしまうことが多いものです。そこには表現衝動が不足してしまう場合が多いものですから。作り手にとって他者の余計な細かな口出しは、作り手の感性と他者の感性の幸福な一致がないほとんどの場合、阻害要因にしかならないのです。その顕著な例は・・・いや、言わぬが花というものでしょう・・・。

    作り手は、今あるがままの等身大の自分を超えることはできません。だからこそ日々等身大の自分自身を磨き上げて、少しでも大きくして行こうとする姿勢を維持しなければなりません。その結果、日々の苦しい呻きの中から、作り手の魂の叫びが発せられてくるのです。

    これからも、ときに下手な自作で戯れながら、本物の作り手の魂の叫びを受けとめたいものです。

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    category: 日々流動

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    雪が降っています 

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    朝早くに起きてみると、一面の雪景色。
    今も降っています。

    さすがに2年前の積雪1mを超える量ではありませんが、それでも家の周りは50㎝はあるでしょう。車も雪に埋もれて寒そうです。

    上の道に除雪が入って、家の周りを雪かきしなければ、出かけることはできません。

    去年は幸いにも雪は少なかったのですが、今シーズンは初雪が50cm超えとなりました。自然はきちんとバランス感覚を持っているようです。

    こんな日は、じっとしているに限ります、ハイ。







    category: 異化する風景

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    上野の森美術館・肉筆浮世絵展~江戸から東京へ 



    昨日の午後、日暮里を経由して上野に向かった。

    池袋から日暮里を経由したのは、やはりここらに来たら「若松」の蕎麦で腹ごしらえして行こうと考えたからだった。

    それは大正解。いつものように美味しかった。切れのいいツルツルの蕎麦が、「若松」流の蕎麦汁とマッチングして、何とも言えぬ味わいで、満足の笑顔が浮かんだ。        若松 もり蕎麦

    日暮里から上野までは山手線で2駅。公園口を出て左に曲がると、そこが上野の森美術館。

    先月から、肉筆の浮世絵展が開催されていた。17世紀から明治期までの肉筆画が展示されていたが、やはり浮世絵の最盛期は1700年代後半(1780~90年代)の、歌麿、豊国、北斎、写楽らが登場した時期である。浮世絵の完成期だからだ。

    実は、私には目的があった。豊国の弟子で、腕は師匠を凌ぐと言われた国政の作品が、もし出品されているなら見てみたいと願っていたのだ。もしに賭けてみたのは、今年中には手を染めてみようかと覚悟している原稿絡みだったから、つい勤勉になるのは当然である。

    混雑する館内を、人の間をかき分けながら巡ったのだが、後期展となった今日の目玉は、豊国、歌麿、北斎あたりで、生でその線をぜひ見たかった国政はなかった。残念ではあったが、止むを得ない。

    しかし江戸職人作家の肉筆は勉強になった。1700年代半ばに、どうやら絵における遠近法が技として確立したらしいこと、北斎の絵はやはり天才の感性を他者に抜きん出て発揮して一味違うこと(職人というより個が確立した作家であることを証ている)、豊国はきらびやかな絵だが、伝統的なものの延長線を超えてはいないこと(つまりは職人技ということになる) 、歌麿の求めた世界は私の期待するものとは意趣が違うことなどを確かめたのである。

    同時に肉筆の屏風絵などは、和室に座して屏風の開き角度にも気を配って楽しまなければ、絵師が表現しようとした光の感覚は解らないとも気づいた。絵師のこだわりの奥深さが怖ろしく思えてきたほどだった。

    来て見て良かったと思った。

    浮世絵師の線の繊細さは、見習うべきことが多い。例えば将棋駒の字母にしても、果たしてこれだけの繊細な線の技が込められているのだろうかと考えると、どうもそうではない現実がある。単調な野暮ったい線がそれらしく配置されているだけの場合が多い。駒字の1本の線にも勢いがあるはずだ。ためたり引いたりする書き手の呼吸に合わせて、1本の線は微妙に太くなり細くなり、また同時に筆先にための力が込められていたりするものではないだろうか?そしてそのことが字の味を呼ぶのではないのか?

    さらに付け足せば、同時代に歌麿や写楽や北斎らの天才的能力を見出して世に売り出した蔦屋重三郎の識見眼力に、改めて感服もした。彼のプロデュース能力は、蔦屋の看板の権威を保って、的確だったのだ。だからこそ、それぞれの絵師の最高の能力を引き出しもしたのだ。そのことを理解した絵師たちは、自らの威信をかけてさらに精進したのだろう。今も時に世に徘徊する小銭稼ぎの屋号看板も持たないブローカー的愛好家など、決して足元にも及ばない。

    そう思うと、これまで自分の中で見過ごしてきた弱点が明確にもなった。単調な野暮な線を許容してきたのではないかと。字母に書き手の呼吸が込められてなかったら、完成した駒も躍動感はない教科書的な説明物になってしまう。作り手の呼吸が込められていないものは、最終的に感動をも生み出さないのだ。

    江戸の浮世絵師の世界を知って、おそらくこれからの私の評価のパラダイムは変化してくるだろう。それこそが勉強だったのである。





    category: 異化する風景

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    本棚の風景 

    JT

    書斎の本棚について思うことがある。

    いや、単純なことなのだが。

    ときに招かれて書斎に入ると、そこでいろんな本棚と出会う。経験で言えることなのだが、その本棚に、立派な体裁の本たちが整然と並べられているときは、大体がこけおどしに並べられている場合が多いのだ。その主も、さもありなんという風情で勿体つけた物言いをして、蘊蓄を語ろうとする。私は大物だと説明しようとする。つまりは、この本棚は、偉そうな飾り棚なのだ。そして多くの場合、立派な体裁の本たちは、新刊本のような綺麗さで読まれた形跡もないのである。

    実用が図られている有効な本棚は、多少雑然としているが、主の目的意識もはっきりとした構成で、そこそこに実用の配慮が施されている。それこそが本来の本棚なのだと思うのだ。

    まあ、今では、本棚そのものがパソコン内でファイル化される時代でもあるのだが・・・。だからこそ、逆に飾り棚的本棚の存在が目についてしまうのかも知れない。

    読まれずに飾られた本は、額縁や平箱にしまわれて飾られた将棋駒と同じで、悲哀に満ちている。読まれてこそ、使われてこその存在ではなかろうか?そう思えてならない。

    エッ!?私の書棚?だから、あまりにも雑然としていて、ご披露できないのが、本当に残念でなりません・・・・。







    category: 異化する風景

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    新年早々、数学に触れた 

    /JT

    たまたま偶然の成り行きで、新年早々、数学に触れることになった。

    私の最年長の従兄に、慶応理工学部数理科学科で長年教鞭をとってきた数学者がいる。(若い頃には私の囲碁の師匠だった)
    確か10年ほど前に伯母の家でその著書「測定理論の数学的基礎」なる著作を見せて貰ったときは、中身はほとんどが記号言語で、頭がクラクラしてしまったが、数学的な記号言語を眺めているうちに、ひょっとしたら数学を昇り詰めたら、たぶんそれは哲学そのものなんだろうなと思えてならなかったことを覚えている。

    確か2・3年前に大学を離れたが、偶然今日、「科学哲学序説」という著書を知ったのである。
    大学時代の講義をまとめたもので、量子力学的解釈で、いわゆる哲学を解釈してみようという意欲的な内容だった。

    こんな数学なら、この私にも理解できる。

    例えば、 1+1≠2  という世界がある。それも私たちの日常にだ。冬に右左両手に1個づつミカンを持って、それを合わせたら2個である。これは 1+1=2 である。しかし両手に水の入ったコップを持って、その水を合わせたら、水の量は増えても2にはならない。文学的には「コップ2杯分の水」であっても、科学的には1つの水なのだ。うーん・・・。

    「飛んでいる矢は飛ばない」なんてこともある。ごくごく微小時間の矢は、あるいはある瞬間の矢は止まっているのである。抉り出した瞬間には飛んではいない矢が、飛んでいるとは不思議ではないか?

    などと、目を瞠らされる世界を通して、最終的には、『科学の形而上学に関する研究仮説』によって、『あらゆる現象を量子言語(量子力学のことわざ)によって解明記述しようとする』試論こそが、「科学哲学」であると論証されていくのだ。

    こう書き記すと、なんだか小難しそうだと思われるかもしれないが、例えばそれをよく噛み砕いた「量哲研」有志の備忘録ブログ 
         
               科学哲学序説:読書日記    http://chanelkant.blog.fc2.com/

    を覗いてみると、理解しやすいだろう。

    あるいは、著書の案内なら 
    科学哲学序説     
             http://www.shiho-shuppan.com/index.php?科学哲学序説%E3%80%80石川史郎


    ひょっとしたら、スポーツ、芸術、学問、実業と、どんな道を登り詰めたとしても、おそらく幸運にも頂上に至ったら、人間である以上、そこで出会う風景は同じものであるのかも知れない。妙にそう思えてならなかった。

    私自身は、まだまだ5合目辺りで、悪戦苦闘の最中で峠には至っていることもないのだが・・・・。








    category: 異化する風景

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