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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    10月25日菊花賞~京都競馬場3000m 

    埴輪馬
    今朝になって、ようやく気力を取り戻して、4日振りに山の坂路調教に向かった。一人ライ○○プなどと粋がってはいるが、実は右脚のマヒと痙攣がこれ以上強まらないようにするためのリハビリの意味もあり、本当はメインテーマはそちらなのだが、それじゃあつまらぬリアリズムでしかないから、カッコつけて遊びにしようと務めているのである。

    この4日の間、若い頃の貴重な時間を共有した友の死は、結構ボディブローとなって尾を引くものだと思い知らされた。心に穴が開いてしまった脱力感が拭えないのだ。これはキツイ。

    でも、生き残ってしまっている以上、すべきことはしなければならないのも現実である。だから山の中を歩きながら(と言っても、私が選んでいる道は木々の中の舗装された林道だが)、西の空に向かって、「死の厳粛さの前に競馬を語るとは不謹慎という輩がいるかも知れないが、お前は判ってくれるよな」と、語りかけてきた。それで少し心が救われた。

    10月25日。菊花賞、京都3000m。
    22日の夜、GCの最終追切を見て、23日にも見返して、私の腹は決まっていた。調教気配が素晴らしいと感じられた馬たちだけを応援しようと。
    私が個人的な主観で調教を見るとき、一つだけ決めたルールがある。調教はタイムではなく気配なのだということだ。競走馬は、追切時計など騎手がきちんと走らせたら、それなりの時計で走ってしまうものだ。実戦の時計を上回る追切時計などはない。つまり何が言いたいかというと、調教気配を判断する基本は、鞍上に走らされているか、いかにも走りたい気配をムンムンと発散させて自ら走っているかという見極めが、調教を見るポイントなのである。

    そんなポイントを見定めながら、この菊花賞で出した私の結論は、リアファル、キタサンブラック、タンタアレグリアの3頭だった。この3頭の気配には、やる気が漲っていた。もう1頭武豊の奇跡の先行を信じてレッドソロモンまでピックアップして超大穴を狙おうかという気持ちが沸いたが、直前に女性絡みの風聞がマスコミに流れていたから、こんなときには奇跡も起こらないと考え直した。それにしてもどうせ騒がれるなら、旬のハリウッド女優あたりと騒がれて欲しいものである。そうでなければ、日本の第1人者の騎手としての沽券に係わるではないか。いや、余計なことだが・・・。

    そこで残った問題は、ダービー2着馬サトノラーゼンと皐月賞2着馬リアルスティールの扱いだった。セントライト記念の7着敗退がどうにも気に入らなかったサトノラーゼンはすぐに消した。そしてリアルスティール。私には、鞍上の必要以上に折り合いに気にかけている素振りが不安だった。観る者に不安を抱かせる調教だった。それが嫌で、当日の返し馬で判断すればいいと決めた。

    タンタアレグリアに関しては、前週秋華賞のおそらくアンドリエッテのような存在だろうなとの予感があったが、あの調教の印象でそうであったなら、それはそれでしょうがないと思った。

    そして軸は、リアファルに決めた。最終追切の軽やかな足取りを見て、神戸新聞杯の強さは信じられると疑わなかった。
    母の父サクラバクシンオーということでキタサンブラックは距離不安をささやかれ続けていたが、あの馬体と同時に最高の調教気配を見れば、勝ったセントライト記念時とはもはや別の馬のようで、何故心配されているのか不思議に思える状態と判断した。

    土曜の夜まで、私は私自身の決断に、本音を言えば納得と自信さえ持っていたのだ。

    日曜早朝に訃報の知らせがメールで届いていたのを知った。

    動揺・・・何故だという落胆・・・私の心は平常心を失った。思考力はどこかに吹き飛んだしまった・・・。

    それでも、何とか昼までに「これは弔い合戦なんだと!」自分に奮起を促そうとしたが、弾むような勝負勘などもはや生まれようがなかった。

    気もそぞろで、パドックを見た。前日までに選んだ3頭の状態の良さは理解したが、何とも気持ちが切り替わらず、改めてリアルスティールの気配を考えて確かめる余裕が生まれては来ず、神戸新聞杯でのリアファルへの完敗だけがイメージとして浮かんで、そのまま消したのである。
    リアルスティールの折り合いにドーンと胸を張ってはいない福永祐一の顔が浮かんだ。しかし祐一は、この日6勝して菊花賞を迎えていたのである。勝負の気合いに満ちていたのに、この日、直前までGCを見られなかった私は知らずにいたのだった。

    ゲートが開いて、1週目の坂上で、酒井学スピリッツミノルがようやく先頭に立ち、2番手をC.ルメール・リアファルが確保した。北村宏キタサンブラックは距離を意識してか中団インに待機する作戦を採った。

    このまま4コーナーを迎えるかと思ったが、そうはならなかった。2000m地点手前辺りから、まずは藤岡康太アルバートドッグが前にと動き、M.デムーロ・ワンダーアツレッタが続き、横山典弘ミュゼエイリアンも前に前にと動いた。この先団でのひしめき合いは、まるでC.ルメール・リアファル潰しの騎手の駆け引きのように、私には映った。おそらくこの地点での攻防で、リアファルは最後にもう一度弾ける脚を失くしていたのだろう。

    直線中ほど。先に抜け出したリアファルのインからキタサンブラックが勢いよく抜けた。そこに外からリアルスティールが追いすがってきた。
    「来るなッ!!」と、おもわずTV画面に向かって叫んだが、この日6勝の福永祐一の気合いの方が勝っていた。リアファルは、今日は神戸新聞杯の軽やかな脚を披歴できなかった・・・。

    1着北村宏キタサンブラック。2着福永祐一リアルスティール。3着C.ルメール・リアファル。そして4着蛯名正義タンタアレグリア。

    こうして旧友の訃報の中の第76回菊花賞を、私は無言と沈黙で終えたのである・・・。





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    category: 競馬

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    古き友・島田雄彦に捧ぐ 

    syou6-cyuu1 08-09 116 (3)菊花賞の朝、その知らせは突然に届いていた。

    訃報だった。高校入学の直後に出会って、それ以来ずっと私の心の友であった島田雄彦が逝ってしまったという。

    私が脊髄の大病をして、その後秩父の山の中に引っ込んでからは、地理的な事情もあって連絡は取っていなかったが、私の心の中では、いつも確かに存在している気になる男だった。

    公立の中学から、当時11名の募集があった別世界の中高一貫教育の高校に運よく合格し、右も左も判らず、周囲との距離感が埋まらず、ただただ寡黙に過ごしていた私に、どういうきっかけか最初に声を掛けてくれたのが、島田雄彦だった。

    それ以来、長い結びつきを持った私にとって唯一の友だった。

    その後、島田は東大工学部に進み、東大を卒業するまでに8年をかけた。いや成績は優秀だったが、その頃、祖父の起こした東証上場の会社に関わる親族間の対立に巻き込まれ、何とか解消克服しようと奴なりに時間を取られてしまっていたのだ。その頃私は、駒場の東大裏近くの上原にいた。だから、「講義の合間に時間が空いて考え事がしたいなら、いつでも自由に部屋を使っていいぞ」と提案して、島田に鍵を渡すほどだった。「長く東大にいたから、これには感謝したよ」と、無事卒業してからも何度も言われたものである。

    高校時代から、島田とはいろんな話をした。未来の話から今俺たちは何をすべきかなどと、青臭い書生語りだったが、こんな体験も今となっては懐かしいし、それなりに貴重な時間だったと思う。

    ただ祖父が高知の出身の故か、その血はときに頭に上りやすく意地っ張りの頑固者の顔を見せて、同じくその頃は身勝手に情緒的に生きていた私と衝突することも多かった。たとえ互いにムキになっても、裏がないから少し時間を置くと冷静にもなれた。こんなことを繰り返していた。

    思い起こせば、島田雄彦は、実は当時から私よりもずっと大人で、その言葉や考え方の根幹は、情緒優先で突っ走ろうとしていた当時の私には理解できなかったが、後年になって私自身が社会や人間を知るようになると、「なるほど奴はこんなことを言ってくれていたのだな」と学ばされたものである。その意味でも、島田はいつも私の心の中にいてくれていたのである。

    そう言えば、免許を取ってまもなく、連れだって何度か車で旅をしたこともある。それぞれが車を運転して、2台の車でだ。今思えば実に勿体ない贅沢な旅だった。近くは、島田の祖父が所有していた軽井沢の別荘近辺、遠くは宮崎日向から熊本阿蘇を抜けて鹿児島まで、途中ではぐれても翌日には何故か合流できた不思議な旅だった。

    ’86年に、1年間の闘病を余儀なくされた代々木公園下での2年前の原付バイク事故をきっかけにして、私はそれまで何とか構築していた集団を離れたが、そのとき「ならば鶴木事務所を作って何かをやろうじゃないか」と、事務所を用意してまで協力してくれたのも島田雄彦だった。自慢じゃないが闘病明けの身で、知恵はあっても経済的な余裕はなかった私を思ってのことだったろう。

    15歳で出会って以来、島田は、いつも私には優しく誠実だった。こんな奴は他にはいないと、私もできることはなんでもした記憶がある。

    ただ誤算は待ち構えていた。アスファルトに肩から叩きつけられた原付事故の影響からか、すぐに私の体は異常をきたすようになってきた。島田の紹介で最初に受診した慈恵医大の検査で、脊髄の病を指摘されたのである。症状は瞬く間に進んできた。

    まもなく痙攣が強まり、他にもいろんな障害が現れて、私は最終的な原因を知るために、子供の頃からの主治医がいた虎の門病院に移り、検査入院を繰り返すようになった。島田との打ち合わせは病院での場合が多くなっていた。

    そして私はいったん島田の前から身を引いたのである。プラニングは島田が辛うじて人員確保してついでくれたが、その後は私も遠慮して、同時に秩父の山に引っ込んだこともあり、また島田も症状の様子から私の命がそう長くはないのではないかと気を使って、それまでの関係は自然に疎遠となっていった。

    ただはっきりと記しておくが、島田は私の心の中ではいつも一緒にいたのである。何とか’92年から私自身も生き残りを賭けた社会復帰に、動き出せるようになったが、でもそれは大手術の後の後遺症を抱えながらの必死な作業の連続であり、旧交を温めるような余裕など生まれようがなかった。引き続き治療を重ねながら、何とかその月の原稿を終えるだけの精一杯の状況が続いたのである。

    だが肉体機能に障害を抱えながらも仕事を続けると、そこで身を持って学んだのは、かつての島田の言葉の正当性の確認となった。「ああ、奴はあの頃から私よりも大人だったんだな・・・」いつもそれを知らされもした。「今ならあいつのことがもっと判る・・・」と。
    島田雄彦は決して創業タイプの男ではなかったが、2代目や3代目あるいは中興の祖として全能力を発揮する優秀さを兼ね備えていた。穴を漏らさず管理することに耐えられる男だった。それは今でも私に欠けた資質である。だから敬うことができるのだ。

    そんなときは、いつもこう呟いていた。「何とか生きながらえていたら、いつか島田とあの日のように笑いながら会える日が来るさ。それまでは、便りがないのがいい便りで行こう!」

    そしてまたかなりの時間が経った昨日の朝、突然の訃報が届いた。

    この知らせを読み終えた瞬間、私は叫んでいた。
    「何で、何でだ!!何でオレより先に島田が逝ってしまうんだ!!・・・」

    次の瞬間、私の頭の中に、ずっと忘れていた島田雄彦の自宅の電話番号が突然に浮かんだ。もう20年もかけていなかった電話番号がである。

    その次の瞬間、私は受話器を取っていた。
    呼び出し音の後、女性の声が届いてきた。
    「もしもし」
    「島田雄彦さんのお宅ですか?」
    「ハイ」
    「ご無沙汰していました・・・・」
    奥さんだった。横浜での結婚式のときに始まって、その後も何度かお会いしているが、本当に久し振りだった。久し振りが悲しい電話となってしまった・・・。

    聞けば、島田は膵臓癌におかされていたのだという。昨年手術を受け、今年は車が運転できるまでに回復していたのだが、2日前の10月22日、あえなく逝ってしまったのだという・・・。咄嗟に言葉が出なかった・・・。

    膵臓癌と言えば、私のもう一人の恩人「優駿」4代目編集長福田喜久男も3年前に亡くなっている。術後体重が次第に落ちて、45Kgを切った頃、肺炎を併発して昏睡状態になった。島田も最後には体重が半分ほどに落ちてしまっていたらしい。

    ただ幸いなことに、島田は4人の娘さんに恵まれていた。それは島田自身が遺した大きな宝物だろう。少なくとも奥さんを含めて遺された5人の家族の間では、島田の輝いていたときの笑顔の記憶が鮮明に残るはずだからだ。そうであって欲しい・・・。

    今日26日が通夜、明日が葬儀だという。
    私は今、大いに悩ましく思っている。義理を優先するならば、すぐにでも駆けつけるのが正解なのかも知れない。しかし本音を記せば、体重が半分に落ちてしまったあいつのやつれた姿など見たくはないのだ。島田雄彦は、私の心の中で元気に熱弁を語ってくれるからこそあいつなのだから。あいつの生きた記憶は、私の中できちんとコードされている。私自身が生ある限り・・・。

    私が逝ってしまった島田雄彦に全力を尽くしてできることは、義理で駆けつけることではないだろう。いずれあいつにまつわる作品を書くことが、私にできる最高の弔辞となるはずだ。この私には島田の為にそれしかできないが、心を捧げることだけはできる。

    島田が、自らの癌を知って闘病を決意してから、同時にその苦痛に耐える日々の中、何故に私に連絡をよこさなかったのか?そこには理由があるはずだ。おそらく推測だが、あいつのプライドに賭けて、やつれた姿をこの私に見せたくはなかったのだろう。私がしなければならないことは、そんな島田雄彦の矜持を最後まで理解して守ってやることかも知れない。

    死を予感した病床のときではなく、死後に届いた知らせの事実をもってしても、そこに私は島田雄彦のあいつ流の意志を感じるのだ。

    机の前の椅子から、今私の尻はすぐにも動き出そうとしているが、敢えて私はその情の動きを鎮めようとした。昨夜用意した黒のスーツに黒のネクタイもまた洋服ダンスに戻した。世間様を思えば、私の選択はあるいは顰蹙ものなのだろうが、少なくとも私と島田の間では、互いの意志と矜持を守り合うことができないことが顰蹙ものだったはずである。そう信じたい。

    いずれ、もう少し時間をおいて、私の心が落ち着きを取り戻して冷静になったとき、改めて一人静かに霊前のあいつに花を捧げよう。そして形を失くしてしまったあいつと久しぶりにゆっくりと語り合おうか。オレはそうすることにするぜ、島田よ。

    それにしてもだ。こんなに早く逝ってしまうなんて、このオレ以上に友達甲斐のない奴だったな、この大馬鹿野郎!!
    オレをこんなに悲しませやがって・・・涙が心に沁みるぜ・・・・ああ・・・・。







    category: 日々流動

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    10月秋競馬佳境~毎日王冠・京都大賞典・府中牝馬S・そして秋華賞 

    埴輪馬

    先週から、日々の生活に「ひとりライ○○プ」と名付けて、2匹の犬たちと一緒に私自身の坂路調教を始めた。今のところ3日坊主では終わっていないので、無理せずしばらく続けて行こうかと思う。何せ、ここ1年身体は鈍ってばかりで、無駄なアクを身に着けてしまっていたので、最初の3日間はきつかったが、少しは慣れてきたので、もう大丈夫。2か月後が楽しみだ。でも、何十万かかけてジムに通うのではないので、結果の写真は非公開にしますです、ハイ。

    1日2時間弱の坂路上り下りの調教は、山の新鮮な空気を吸いながら、川の水音を耳で楽しんで、ひたすら汗をかく作業となる。田舎の山暮らしに今以上の刺激が欲しくなってイラついていた心になっていたが、少し発想を変えて、それなら毎日別荘にいる感覚で、観光気分で自然を謳歌しながら坂路調教をしてみたらと考えた次第。

    でも支度と終わった後のシャワーで前後3時間取られると、なかなか思うように時間が自由にならない。特に最初のうちは、筋肉痛で使い物にならなかったし・・・。

    で、競馬のことにも触れる間もなく、もう2週が過ぎて、今週は菊花賞だ。

    毎日王冠・京都大賞典から府中牝馬S・秋華賞。

    毎日王冠は、いまだ底を見せていない武豊エイシンヒカリから四位洋文ディサイファ、蛯名正義イスラボニータへの2点で仕留めたが、そこから少し強気になって(販路調教でかつての闘争心が戻ってきたのかも?)、京都大賞典は切れ味の好きな川田将雅ラブリーデイから武豊ラキシスへ、府中牝馬Sは調教の良かったC.ルメール騎乗のノボリディアーナ(中山助手を信じた)から田中勝春スイートサルサへの1点勝負で撃沈、秋華賞に至っては、調教の良かった浜中俊ミッキークイーンからC.ルメール・タッチングスピーチと川田将雅アンドリエッテへの2点でまたも悔しい思いをした。全て軸馬は正解しているのにだ。

    府中はともかく京都競馬場の軽い高速馬場が結果を大きく左右したということだろう。秋華賞では、M.デムーロ・クィーンズリングは春にも狙っていたから気になったのだが、本質はマイラーだろうと最後に切ってしまい、少し足りないかもしれないがそれならとアンドリエッテに狙いをつけたが、やはり少し足らずに4着。クィーンズリングは軽い高速馬場を味方につけて、最後にマイラー特有の切れ味で追い込んできた。

    まあ、こんなこともある。果報はやはり寝て待てで、焦ってみても始まらない。狙いは間違ってはいないのだからと自己満足しておこうか。

    それにしても、牡馬ラブリーデイと牝馬ミッキークインは、最高レベルの実力馬だ。現時点の日本を代表するサラブレッドと断言してもいいだろう。

    週末の菊花賞。どの馬が軽い高速馬場を味方につけるかが勝負の分かれ目となるだろう。私はそう睨んでいる。翌週の天皇賞は、ラブリーデイと底を見せていないエイシンヒカリ、復帰2戦目となるイスラボニータの体調UPの最終追切りに注目してみようか。

    何よりも、自分自身の坂路調教で、さらに闘争心を蘇らせて、狙い馬を絞りに絞ってみようかと、そう思っている今日この頃なのです、ハイ。







    category: 競馬

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    試しのいたずら 

    先月の末から、下手糞でもいいので、何とか自分だけの「錦旗」が欲しくなって、時間があれば少しづつ鉛筆で字母を書いていたが、字母はまだまだ未完成なのに、どんな雰囲気になるのか試しに作ってみたくなって、もうどうにも止まらない状態で、やってみてしまった。

    結論は、やはり下手糞で、顔が紅くもなり、蒼褪めもしたが、これから何とか納得できる字母ができたなら、おそらくこんな雰囲気になることだけは理解した。

    駒字というのは、書き文字である。手書きの文字というのは、人それぞれアプローチする癖があって、波長が合わないとよそ様の文字は妙にイラつくときがある。今はワードの印刷文書で誤魔化されているが、逆に波長が合えば個性ある癖字がそれこそ妙に魅かれるような味わいを感じることもある。文字には、どうやら書き手の知性が溢れ出してくるようだ。勿論、ペン習字のようなきれいな文字は、見た目読みやすいが、「美しい字ですね」という以上のものは感じられない。

    となれば、他者の眼はとにかく、自分が納得して満足できる文字というのは、結局は自分の手掛けて書いた文字なのではないかと、ふと気づいてしまったのだ。勿論、本職の駒師の方たちには、作品を甘受する受け手のことを意識しなければならないから、そんな我儘は許されないことは判っている。当たり前である。

    でもね、私は趣味でいたずらしているのだから、少なくとも自作駒なら好き勝手にしてもいいのではないか?と、そう気づいたのだ。
    腕白でもいい・・・とかいうCMが以前にあったが、私の場合は、「下手糞でもいい、やってみるだけだ」という覚悟だけが、やらされるのではない、自分自身の発見につながるのだから・・・とか何とか・・・。

    で、やってみてしまったのです。      DSCN1991.jpg こんな3種類ができました。いやはや、下手糞で、形もまだ不安定で、本当は写真を載せるなんて身の程知らずというものでしょう。

    とりわけ完成を急いではいないので、これからしばらく、駒字を勉強しながら生涯6作目として戯れる材料ができたということです。

    さてさてどうなりますことやら・・・。長い目でお付き合いくださいませ。何せまだ、どんな駒木地にするかも決まっていないし、準備もしていないのですから。          
                              DSCN1996.jpg






    category: 将棋駒

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    唐十郎作「少女仮面」~新宿梁山泊公演 於:下北沢 スズナリ劇場 

    2015少女仮面
    かねての約束通り、劇評家の西堂行人と待ち合わせて、10月5日、下北沢に行った。

    いつの間にか(私に何の相談もなく?)小田急線が、かつての東北沢の開かずの踏切手前辺りから地下に潜って、駅前は再開発の途中だったが、私自身は地下に潜った小田急に乗って下北に来たのは初めてだった。再開発で、新宿寄りの踏切の角にあった煎餅屋の「満月」が買えなくなると嫌だなと心配していたが、その店は眼の前の踏切が無くなった為に、逆に駅前の一等地の角地に店が残るようになっていた。これも運なのだろう。

    7時開演。以前に「少女仮面」を見たのは、李麗仙が本番直前の舞台稽古中に転倒して頸椎を痛めてあわや公演中止の事態となったた94年の同じ下北沢にある本多劇場公演以来だから、いやはやもう20年にもなる。(このときのことは、拙著「李麗仙という名の女優」に詳しい)

    「少女仮面」という作品は、おそらく作家唐十郎が、原風景としてのイメージを50年代のフィルムノワールの名作映画「サンセット大通り」から構想したと理解している。監督は巨匠ビリー・ワイルダーだった。サイレント映画時代のスター女優ノーマは、ロス郊外の大邸宅で執事を抱えながら、今は老いてもスターであったかつての幻影の中で生きている。そのイメージを、唐十郎は時空を超えて存在すら疑わしい某地下喫茶店に徘徊するかつての宝塚少女歌劇のスター春日野八千代に託したのである。

    細かく劇をなぞるのは止めておくが、演出金守珍がその地下の喫茶店の壁に飾られた額縁の中に、猛吹雪が吹き荒れる満州の荒野を組み込んだ演出は特筆ものだった。一瞬にして、小さなスズナリの劇場空間が、冷え冷えとした満州の荒野に変じたのだ。

    マスク(仮面)や腹話術という一個の人間の同存表現も、いま改めて新鮮に感じた。

    そう言えば、演出の金守珍にも、彼が監督をしてあの山本太郎が主演した映画「夜を賭けて」の撮影のとき、韓国で出会っている。あのとき私は、「一度韓国に行きたいなあ・・」と呟いたら、出演していた李麗仙が、「それなら私の付き人ということにして行こうよ」と声を掛けてくれたのだ。拙著「李麗仙という名の女優」を出版してくれたアートンの郭充良が映画のスポンサーでありプロデューサーであったことも幸いした。確か1か月半の間に2度渡韓した記憶がある。今回の公演は、しばらく忘れていたこんなことも想い出させてくれた。

    終演後、西堂と共に李麗仙の楽屋に顔を出して挨拶して帰ろうとしたが、同じ場所に大鶴義丹の娘であるビアンちゃんと母マルシアがいた。一瞬懐かしく、私はもう18歳になったビアンちゃんに声を掛けた。以前にまだ幼かった彼女と那須に一緒に行ったこともあったのだ。あのときは、李麗仙が孫のビアンちゃんを連れ、私も息子を連れて行った。現地では、現役を引退した騎手安田富男も合流した。楽しく印象的な旅だった。
    「あれ、ビアンちゃんじゃない」
    一瞬キョトンとしたビアンちゃんに、
    「ホラ、あの時一緒に那須に行ったでしょ。覚えてる?」
    「ハイ」
    「大きくなって・・。目元がお父さんとそっくりになってきたね」
    「皆さんからそう言われるんです」
    そんな会話を、隣でマルシアが笑みを浮かべながら聞いていた。

    すぐに楽屋を訪ねる順番が来て、私たちはそのまま挨拶に向かった。
    この日、芝居を終えた李麗仙からも、西堂行人からも、「このあとちょっとビールでも」と誘われたのだが、時計を見ると、何とか最終のレッドアローに乗れたので、後ろ髪を引かれる思いで、一人劇場を後にした。

    これもまた、流れ行く日々の、一瞬の光景なのである。そしてその景色は、自ら動くことでいろいろに様変わりする。ふと気づいたときには、予想だにしなかった地平にまで辿り着いていることさえある。「山にこもらず、自ら動かねばならないな、やっぱり」と、改めて気づかされた夜となった。

    でも、李麗仙とも西堂行人とも、11月1日の天皇賞でまた会えるのだ。その手配だけはしておいたから、今回は良しとしようか・・・。





    category: 映画・演劇

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