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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    ああ、ゴールドシップ 2013春天皇賞~京都3200m 

    130429KI01.jpg   130429KI02.jpg写真:石山勝敏


      


    ゴールドシップの反応は鈍かった。

    いつものように残り5F(1000m)地点辺りからまくり上げようとしたが、第4コーナーでは内田博幸が、バシッバシッと激しく馬に活を入れなければならぬほどだった。

                 2013春天皇賞第4コーナー内から2頭目が勝ったフェノーメノ、右隣がトーセンラー、その隣の葦毛がゴールドシップ。

    コーナーを廻って、直線を迎えたとき、戸崎圭太ジャガーメイルに前を過られて体勢を立て直すロスを受けはしたが、それがなくてもこの日は3着が精一杯だったろう。昨年のダービーを再現するかのような5着敗退だった。

    何が原因なのか正確には判断がつかない。競馬サークルには「2走ボケ」という便利な、しかしそうとしか言えない用語がある。休養明けの前走で走りすぎてしまった馬が、2戦目に考えられぬ凡走をすることをいう。それなりの好状態の調教気配を保っているのにレースで走らないのである。そして3戦目には、元の姿を取り戻すのだ。

    一説には、京都の高速馬場を敗因の理由に上げられているが、私にはそうは思えない。スタートの遅れがなかったら、また別の形のレースになっていた筈だし、今回は内田博幸の手綱によって、そんなレースを見せてほしいと願っていたのだが・・・。

    何となく思い当たる節がないわけでもない。芝コースで行われた最終追い切りで、ゴールドシップは妙に動かなかったのである。合わせた相手がほぼ馬なりの手応えなのに、ゴールドシップは、鞭を入れられ激しく追われていたのだ。明らかに前走阪神大賞典のときの方がまだ良かったと思えた。しかし私も凡人である。心にわだかまるものを感じたのに、改めて抜群の成績欄を見て、いやいや杞憂だろうと自分自身の勘を否定してしまったのである。

    でも予感は正しかった。第4コーナーで先団に取りついたら、そこから一気に突き抜けるのがゴールドシップなのに、もたついて、蛯名正義フエノーメノ、武豊トーセンラーに逆に離されてしまったのだから。

    今はただ、あのシャープに弾けた姿を取り戻してほしいと願うばかりである。

    勝った蛯名正義フェノーメノも2着の武豊トーセンラーも、資質の高い馬に乗ったらこれしかないという、競馬の教科書通りの騎乗だった。中団ポジションから4コーナーで先頭に並びかけゴールインする騎乗である。でも馬が強くなかったら、なかなかこの芸当はできない。その意味では、蛯名正義も武豊も手綱の手応えに自信を持って乗っていた印象だ。わけても武豊は、最初からゴールドシップではなく、フェノーメノをマークしていたようで、こんな騎乗にも、実は武豊のしたたかさは表れているのだと知らされた。

               2013はry天皇賞ゴール

    ゴールイン直後、騎手学校3期生の同期の2人は、馬上で何を語り合ったのだろうか?

               ゴールイン後2013春天皇賞

    つくづく競馬は難しい・・・。でもだからこそ面白いと言えるのだ。
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    category: 競馬

    thread: 演劇的競馬論  -  janre: 学問・文化・芸術

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    たかが駒、されど駒 

    DSCN0537.jpg

    これは盛上げ将棋駒です。でも安土桃山時代の書き駒ではありません。華麗な蒔絵でもありません。

    駒なのです。それ以上でも以下でもありません。

    いたってシンプルに磨かれた駒木地の上に、漆で文字が書かれ、盛り上がっています。

    たかが駒、でもされど駒。漆の声を聴いて、心魅かれて判ろうとする人にはお宝です。

    とりわけ特別な漆芸の技があるというよりは、漆の声を聴いて、基本となる駒字をどう生かしたら象形文字による絵になるかに留意されています。彫って埋めて、こう仕上げたいという作者の思いは込めてあります。そうでなかったら、絵にはなりません。

    大袈裟なものではなく、シンプルな仕上がりですが、じっと見ていると、思わず引き込んでくれる魅力があります。

    えっ?どなたかおっしゃいました?文字は仏の世界の位牌に書かれた戒名みたいって?そうです。位牌に文字を書くために漆が発する声を聴いて、戒名を書く腕があれば、駒字の盛上げはさしあたりできます。綺麗に文字を書くだけではなく、今一つ作者の思いを受けた書き手の感性が必要なんですけどね。

    本当に大袈裟なものではありません。実は将棋を楽しむための実用品なんですから。使われての価値なんです。

    でもね、ふと立ち止まって眺めてみると、何とも言えず、小振りで粋なものと言えます・・・。大事に使われて、磨かれて、盛上げの漆が駒形に馴染んでくると、魅惑の風情を発します・・・。

    興味ある方は、ぜひ駒を手にしてくださいませ。

    category: 将棋駒

    thread: 極私的将棋駒の快楽  -  janre: 学問・文化・芸術

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    経験の眼鏡 

    由進作 勝運駒

    どうも人間というのは、自分自身の経験の眼鏡が離せないものらしい。

    若いときは、それでももっと何かがあるかも知れないと、まだ謙虚だが、老いた後はそれはあるいは老醜であり陋習と言えるのかも知れない。

    物事は、最初の段階では、習うより慣れよとされる。そのこと自体は素晴らしいことだが、慣れた後に、それを絶対なものとしてそこから先の創意工夫を忘れると、所謂常識のダークサイドに入り込んでしまうことがある。それが恐ろしい。

    昔からそれぞれのジャンルで、専門職の言い伝えというものがある。それはそれで参考にすべき含蓄のある言葉なのだが、その言い伝えが生まれた時代背景、その時代の文化水準、科学技術などを無視して絶対視すると、おかしな常識がそのまま語り続けられてしまうのではないだろうか。

    例えば、最近、駒師由進からいい言葉を聞いた。

    「昔から漆は生きていると言われているんです。確かにそうです。だから湿気の多い梅雨の時期や、気温の低い冬場は、盛上げには向かないと言われてきました。やはり気温や湿気のいい春や秋が盛上げ作業にはいいんです。駒師になった頃、私も漆には悩まされましたよ。でも、ある時ふと思い当ったんです。それなら今を春や秋にしてしまえば良いじゃないかと。昔は無理でしたが、現在ならそれが自宅で可能ですからね」

    つまり活きた漆のやんちゃに合わせるのではなく、周りの環境を漆のために整えてしまうという発想こそが、常識にとらわれない態度なのである。或いは、漆を使うとは言え、小さな将棋駒だから可能な方法なのかも知れないのだが。

    常識には、立ち止まって考えると、常識の不条理が支配していることがあるのだ。多くの人たちが言われるままの常識に疑問を持たず、そういうものかと受け入れている場合が多いし、先人もまた言われたままをさらに言い伝えてしまうことも多い。

    確かに新しい工夫というのは、実際にやってみて、成功の証明が必要である。やってみてダメならまた考えを改めて、再度新しい創意工夫に挑めばいい。もしOKなら、大いなる進歩となっていく。由進の場合には、最初に新発想で創った盛上げ駒は、もうそろそろ5年も経っているが、固まった漆には、何も不都合は生まれていないという。手元に、盤に打ち付けて自ら確かめるための駒を確保していて、日々チェックしているが、その駒に悪い影響などは表れていないのだ。何か不都合があるなら、当然もうその兆しが表れていても不思議はない筈なのに。

    私自身が、駒師由進に魅かれたのは、こんな進取の精神を持って、駒創りに挑戦していたことが大きい。作品だけでなく、勿体つけずに率直に話すその言葉にも何らかの刺激を受けるからである。同時に、ツーと言えばカーと返答が返ってくる響きが心地良いからでもある。それがいいのだ。

    これまで、聞き手の立場で、いろいろな人たちに話を聞いて取材をする経験を積んできたが、これは本物の言葉だと思えたのは、いつも経験の眼鏡で見た眺めを、受け入れながらも絶えず疑い、疑いながらも尊ぶという柔軟な度量のある人たちの言葉だった。その瞬間、彼らは勿体つけた尊大な態度は決して示さなかった。謙虚に、あくまでも謙虚に、自らの場所での自らの思うところを語ってくれたのだった。

    そう言えば、明日は天皇賞。進取の精神に満ち満ちて、今や巨大となった社台グループの代表たちのこんな言葉も、私には聞いていて心地良かったものである。

    「馬券は買わなきゃ当たらない。種馬は、買って、産駒が生まれて、それが走ってみなけりゃ判らない」
                                  社台ファーム代表 吉田照哉
    「ボクらはね、馬喰なんです。馬で生きているんです。いい馬がいたら買って、育てて売る。やがては種付けもする。それに尽きます」                    ノーザンファーム代表 吉田勝巳

    世界を相手に、日本の馬産業をリードする男たちすらも、少しも勿体つけることなどなかった。とてもシンプルに自らの為すべき役割を語ってくれた。だからこそ躍進を続けているのだ。そう思う・・・。                            

    category: 日々流動

    thread: 異化する風景  -  janre: 学問・文化・芸術

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    エアグルーブよ、永遠なれ 



    ついさっきニュースを知った。

    昨夜、オークス・天皇賞馬エアグルーブ(父トニービン×母ダイナカール)が死んだ。

    キングカメハメハの牡馬を生み落した直後、出産後の内出血によって命を絶ったという。ノーザンファーム代表吉田勝巳によれば、名牝エアグルーブの遺児は素晴らしい牡馬であるという。最後までエアグルーブは、気品を保ったサラブレッドとして存在し、そして旅立ったのだ。

    思えば、この馬の活躍が、私と伊藤雄二元調教師を結び付け、それが、今でも知る人が名著と褒めてくださる「調教師伊藤雄二の確かな眼」として4冊の単行本と2冊の文庫本に結晶していったのである。同時にこの馬は、全盛を誇った当時の騎手武豊に華々しい彩りを添えてもいったことは、論を待たない一つの競馬史だった。 DSCN0864.jpg


    今、いろんな取材シーンが、私の脳裏に駆け巡っている。空港牧場で骨折休養中にその頬を撫でたこと、JC直前の伊藤雄二の引き締まった表情、年度代表馬となって年が明けた大雪の日にニューオオタニホテルで行われた記念パーティ、引退して繁殖馬となり伊藤雄二調教師と連れ立って見た初仔(後のアドマイヤグルーブである)・・・。他にもいろいろな光景を目にしてきた。いつも隣には、伊藤雄二調教師がいた・・・。

    エアグルーブの死は、間違いなく日本の競馬の尊い宝物の一つを失くした事実を、私たちに突きつけてくる。だからこそ、その喪失感は重く深い。ましてや、私は、管理した伊藤雄二調教師の傍で2人3脚の態勢を組むように、長い時間をかけて原稿を書き綴ってきたのである。私の競馬原稿世界の、大きなメルクマールを失った寂しさに、ただただ意気消沈している。おそらく今、伊藤雄二元調教師の心境も同じものだろう。寂しくてもの哀しい。哀しくて寂しくて、言葉を吐くのも辛い・・・。

    でも競馬の弔いは、競馬でしかできやしない。週末の春天皇賞。母を失くしたフォゲッタブルの激走を見守ってみようか。相手筆頭は、ゴールドシップ。仮想敵(ライバル)とするには、まさに相応しい相手ではないか・・・。

    今はただ、空に向かって、エアグルーブに、こう語りかけよう。

    「エアグルーブよ、お疲れさん。もう大丈夫さ。君の血はサラブレッド400年の歴史の中に、もうすでに確かに刻まれているのだから」と。

    4年後の日本ダービー。昨夜生まれて、その日に母を失くした遺児(父キングカメハメハ)が、乳母に育てられて逞しく成長した姿で、大観衆の涙腺をもろくする活躍を果たすことを祈っておこう。いや、きっとそうなるんだ・・・。

          DSCN0863.jp<br />g 天皇賞「調教師伊藤雄二の確かな眼」より (写真:K.Ishiyama)



    category: 競馬

    thread: 演劇的競馬論  -  janre: 学問・文化・芸術

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    一期一会~最初で最後の名人との遭遇 

    DSCN0596.jpg

    スポーツ、絵画、音楽、芸能、創作、勝負師、あるいは組織人でも・・・世にあるどんなジャンルであっても、そこに有望な新人が現れたとき、少しばかりの摩擦熱が沸き起こるものだ。

    それぞれのジャンルで、辛うじて(必死と言ってもいい)権威を保っているかに見える先行世代にとっては、新しい力は自らを脅かす新興勢力であるからである。

    私も、最初に原稿が掲載されたとき、酒席で編集者からある作家を紹介されたとき、はっきりと言われたことを覚えている。

    「まだ海のものとも山のものとも判らない」

    私にとっては、この言葉は、その後座右の銘とも言える戒めとなっているので、この言葉を敢えて初対面で言ってくれた作家には、本当に感謝しているし、今でも親交があるし、可愛がってもらってもいる。こういう言葉なら財産となるが、中には、金玉や肝っ玉の小さい同時に心の底が見透かされてしまうような度量のない言葉を吐いて、自らの権威を敢えて強調して見せようなどとする先人たちもいる。

    だが、自らの表現に堂々とした自信を持つ一流の本物は、却って有望な新人が出現したことに期待と刺激を得て、新人の動向に秘めた視線を送る場合が多い。

    新人というのは、たちまちに自滅してしまうことも多いが、中には時代の波に乗って期待通りの作品を次々と生み出し、それぞれのジャンルに新風を巻き起こすこともあるからだ。

    さらに言い切れば、鍛えられた本物の先人なら、新しい才能の在処やその同時代における価値など、たった一つの作品を見たり、読んだり、聞いたりすれば、即座にその将来性までもを含めて見極めてしまう筈である。それが一流の眼差しというものだろう。

    そんな存在たちは、だからこそ鷹揚に構えていられるのだ。

    今から43年前、まだ坊主頭の高校生由進も、偉大な男の大きな背中を見上げたことがある。

    その男は、将棋名人大山康晴。小男なのに、実に大きく聳え立つように目の前にいた。それが、由進には不思議に思えてならなかった・・・。そしてその遭遇は、最初にして最後のものとなった・・・。
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    category: 異化する風景

    thread: 異化する風景  -  janre: 学問・文化・芸術

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