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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    古駒の行く末 

    1週間ほど前、オークションに出品されていた数々の古駒を眺めていた。
    おそらく蒐集愛好家の手元から、様々な事情(後継者がいない状況でご本人が亡くなってしまったのではないか?)で、古美術商に流れて、遺品となったそれらが出品されたということだろう。

    それにしても本格的な蒐集家というのは、生前に本気で手元に集めるものである。龍山、静山、木村、宮松、影水、初代竹風、そしておそらくは本物の水無瀬家書き駒まで。

    古い駒というのは、アクや味わいに満ちている。そしてそれが、逆に何と実用品を超え得た作品としてのアーティスティックな個性となっているのを再確認した。
    私自身は、現代駒というのは、TQCを求めるあまりなのか、とかく教科書的な無難な工業製品のような(まあ、スキがないとも言えるのだが)アクや味を捨てているものが多いなという個人的な感想を抱いている。

    味やアクこそが、実は作品としての価値を有らしめるものなのにである。でもそれは、その時代に生きる受け手のレヴェルで決まる側面があるから、結局は、自分自身が何を大事に感じ、何をその拠り所にしているかという美感や、大げさに言えば思想哲学の問題に行き着くので、とにかく良いものを見る経験を積み上げて、その世界の扉を開けて行くしかない。

    必ずしも自己所有しているかどうかということではないだろう。勿論所有していれば、いつだって見られ、いつだって触れる特権があるが、運良く出会った人に触れさせていただいて、それを自分の記憶にしっかりと焼き付けておくというのも効果的な経験となるはずだ。

    残念ながらここしばらくずっと手元不如意状態なので、いささかも購入しようとは思っていなかったが、それ故好奇心を逆に高めてじっと眺めていた。

    魅かれたのは、水無瀬駒(写真はオークションから)
    この特徴的な直筆書き駒の魅力。ひょっとしたら水無瀬兼成の真作なのではないかと直感した。味わいに溢れていた。

    他にも、何故か無銘だったがおそらく影水作の淇洲。 淇洲

    それに、木村作の清安。 木村 清安

    こんな個人的に魅かれる駒をただただ(指を咥えて)眺めているのも楽しい時間だった。
    (そう言えば、同時出品されていた将棋連盟の「関東名人駒」と兄弟駒とされる赤柾の奥野作宋歩好は、結局どうなったのだろう?気になるところだ)

    それにしても、趣味人の気概を込めて蒐集された駒作品の寿命もまた、それらを愛した者の寿命と一体となっているのではないかという厳粛な事実をも、改めて思い知らされた時間でもあった。数寄に走る者には、次代の行く末をも担う責任までが付き纏ってくるということなのだろう。それはそれで大変だ・・・。








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    category: 将棋駒

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    盤~木口の宇宙的紋様 

    DSCN2193.jpg   DSCN2191.jpg   DSCN2192.jpg

    3枚の将棋盤の木口の写真を撮ってみた。ちょっとフラッシュが反射して映りが悪いが・・・。

    左から、柾目(天柾か)、木裏、柾目だ。

    一本一本の年輪が、時間にして1年が刻まれていると考えるなら、こんな小さな写真の中に、数百年の時間が刻まれていることになる。受けとめる発想や視点を少しだけ変えてみると、ここにはまさに宇宙的時間が込められているのだとも言える。

    もうひとつ判るのは、榧の木の根付いた場所の生育環境である。種がどこに根付くのかというのは、人工的植林ではない限り、偶然の気まぐれで、たまたま根付いてしまった場所が、厳しい環境だったかそうでなかったかは、年輪の幅で判ってくる。

    2枚目までの画像より、3枚目の年輪の幅は広い。それだけ楽に成長できたということだ。でも逆境に耐えて育った榧が刻み込む細かな年輪の方が、やはり眺めて風合いがあるのだ。

    おそらく人間であっても、厳しい現実に耐えて齢を重ねて育ちきった人物の方が、スクスクと育った人物よりも、情緒的な風合いにより深いものがあるのと同じことだろう。ただ人間の場合は、見える表の顔の他に隠された裏の顔もあるから、少しだけ複雑にもなるのだが・・・。

    ともあれ、榧の木口の表情に宇宙的時間を感じると、興味がさらに湧き、眺めていても少しも飽きない。

    こんな楽しみもあるんだと、改めて感じ入る今日この頃・・・。




    category: 将棋駒

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    巻菱湖 

    DSCN0935.jpg

    この3日間出かけていて、昨夜帰って来ると、待ち構えるように知人から連絡があった。
    曰く、「某所で賑やかに話題にされているよ」と。
    だが、その場所は、総合案内スレッド自体に「では、嘘を嘘と見抜ける貴方、お楽しみ下さい」とあり(いやそのスレッドの表記もあるいは嘘なのかも知れないが・・苦笑)、言わば世間の井戸端会議のようなものだと認識しているので、特に感想はなかった。

    まあ、話題になった理由は、出かける前に、私がある意志を持って、由進作「巻菱湖」の駒を、オークションに出品したことにあるのだろう。せめて私自身を直接に知る方たちだけには、本意を伝えておかねばならないのではないか?そう思った。

    これまで私は、「駒蒐集家」とか「駒愛好家」、あるいは「駒の研究家」などと、自分を規定したことはない。

    ただただ、とある一瞬に、駒に魅せられてしまった単なる駒好きでしかなく、その立場で、自分自身の関心のままにアプローチしてきただけなのだ。それを文章にしてきたのも、所有すること以上に文章にすることが、私にできる方法だったからである。それ以上の意味はない。

    6年前、ひとりの駒師と幸運にも出会い、その作品を見守る中で、私自身も学んできた。良きにつけ悪しきにつけ、新しい人との出会いもあって、その作業は加速度をもつけて形になってきたのである。それなりに楽しい作業だったと言える。

    最近、駒師由進(出石)についてブログで触れないなどと言われるが、その最大の理由は、去年彼の駒が棋界最高峰の名人戦対局駒となったからである。そうなったら、何を選択し、何を友として、あるいは何を目標として、どう生きていくかというような作品世界は、もはや彼自身の選択にしかなく、部外者の入る余地はないと考えているからである。ここまでなのか、あるいはこの先まで可能性を秘めているのか、そんなことは、もはや作り手自身の人生観でしかないのはいうまでもないだろう。これ以上は、余計なお節介でしかないし、ある一人の駒師がどう育っていくのかという書き手としての私自身の裏テーマは、もはや完結しているのかも知れない。

    ここ6年の間、私は駒師由進の作品を通して、あるいは根底の土台として、見極めの軸としてきた。
    じっと背後から見つめてきた感想からすると、由進流「巻菱湖」は、すでに彼の作風としての書体は完成しているのである。(人の好き嫌いは別物だが)

    ここで私の書き手としての刺激を求める天邪鬼な心が動くのだ。私は、例えば相撲なら、幕内上位から小結関脇に出世しようとする力士の瞬間に、大きな関心を抱くのだ。大関横綱となってしまうより、この若く荒々しい同時に粗々しくもある瞬間に輝く才能に魅かれる。その意味では、駒蒐集家やブローカーなら大関横綱となってからがビジネスチャンスなのかも知れないが、私にはそれは関心外のことである。そんな輩が一人ぐらいいてもいいだろう。誰しもがあなたの心の欲と同一の生き方をしている訳じゃない。

    私自身の得た結論は、由進の想いとは別なものだったのかも知れない。「安清」「長禄」「宗歩好」などに、これからどう完成していくのかという可能性を見い出すが、すでにそれなりの完成期を迎えている「巻菱湖」には、これ以上の表現の醍醐味を感じないのだ。勿論、手元に置いておけばそれなりに楽しめる駒であるのは間違いない。

    もうひとつ思ったことがある。「巻菱湖」は、一見難しそうに見えるが、字母さえしっかりしていれば、極端に言えば駒作りの初心者さえ、ある程度は形がついてしまう不思議な書体であることに気づいていたからだ。(勿論彫り駒は彫りの技が必要となるが)だからこそ、それなりにいい「巻菱湖」をより多くの人たちの眼にとめて貰うべきだろうと。

    で、さらに考えた。考え抜いた。最近、駒のオークションも何となく低迷している印象があるし、駒の価格もわずか数年前とは比べものもないほど低迷している。ひとえにそれは、きちんとした駒が、きちんとした形で流通していないからなのではないかと。良いものが、たまには流通しなければ、購入意欲も下がり、結局はじり貧になってしまうことになる。

    しかし、そのためには、密かに代行業者を使って出品したら、意味はない。掘り出し物の良さをアピールしなければならないだろうからだ。価格は、それが今の駒に対する購買意欲の現実だから、その評価を知るだけでもこれからの参考にはなるだろう。

    かつては、製作の情報を世に伝えることが大事だと語っていた由進が、どこかの誰かのアドバイスを受けた結果なのか、ブログ更新を止めて秘密主義化しているその方策の効果も、果たして末端まで浸透しているのか否かという形で試されて明らかにもなるはずだ。

    今あるがままの現実を敢えて知るために、私は実行した。駒は道具だ。もはや平箱でしまったままの現状より、使われる喜びを駒に与えるべきでもある。いいものは、流通してこそいい噂をも呼び込むに違いない。

    結果は、総閲覧数が1500を超え、ウォッチリストにはその1割ほどが登録されていた。関心を呼ぶさざ波が沸き起こっていたようだ。それだけでも敢えてやってみた成果はあったのだと解釈している。落札価格も、中古品と考えるならそれなりの評価だったと感じる。いや、私は駒が小さな投機・投資の材料と考えてはいないからなのだが・・・。勿論、きちんと看板を掲げて納税をも果たす著名なエージェントやマネージャーがつけば、この限りではないだろう。でも、そもそも作品というものは、作者の死後に2度と手に入らないという状況下で価格は高騰するものではないだろうかとも思っている・・・。


    余波?私は世間様の井戸端会議で、由進の作に飽きて手放したならず者と断定されているようです。でもそれも、今回実行してみたチャレンジが引き起こしたさざ波なのでしょう。どんなことであれ、多少は賑やかでないと面白くないですから。

    でもね、私の手元にはまだ3作の由進作の盛上げ駒があって、大事にしているんですから。ご安心くださいませ、ハイ。

                         DSCN0796.jpg(今のお気に入りの「宗歩好」)



    category: 将棋駒

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    急激に変化した駒の例 

    2013koma1.jpg

    20130928T.jpg

    この2枚の駒写真は同じものだ。(写真の小さいのはご勘弁を)
    上は、出来上がったばかりの駒。下はその半年後の姿。2枚目の写真は某名品コーナーに一時的に掲載されていたものの抜粋である。

    わずか半年で木地がこんなに変化することはあるのだろうか?

    自然変化とは考えられない。こんな人為的操作があるのだ。侘び寂びや粋を求めずドギツイ色合いが好きなら、問題はないのだろうが、木地本来の持ち味を求めるなら、異物となる。

    世の中には、それが平然と流通している場合さえある。(念のため、この駒ではないのは断言しておくが)

    いくつか問い合わせをいただいた回答です、ハイ。

    こんな作者を傷つける人為的な加工を許してはいけないと、そう考えて駒を眺める日々を送っています。





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    薬品処理された駒 

    由進作 左馬・幸運駒②

    以前に、まだ完成してさほど時間が経ってはいない彫り駒を某所で見せて貰ったことがある。

    完成間もないのに、その杢系の駒はまるで20年も使われて、駒木地が変化したような、そんな風合いが漂っていた。

    聞けば、銘木の世界には、化学薬品を使って処理して、木地の魅力を引き出す技があるのだという。

    そんな薬品処理が、その彫り駒にも人為的に為されていた。個人で一挙に変化した駒木地の風合いを楽しむのなら、それは自由である。だがそんな駒が、聞くところによると、オークション代行業者の手で出品されているとしたら、駒写真を頼りにして駒木地の風合いを凄いと感じて購入した善意の第3者は、手に届いてしばらくすると愕然とすることになるだろう。木地の派手な凄さは、その後もどぎつく増していくからだ。

    そのとき見た薬品処理された駒には、さらに後日談がある。過剰に処理された故か、彫り跡の漆に影響し、プロをもってしても修理不能と判断されてしまったのである。所有者は、それでも何とかと、細工に自信があるのか、自分で漆に手を加えたのだとも聞いた。
    おそらくそんな細工は、しばらく手元に置いて何となく不審に思えば、我慢できないものになるに違いない。

    例えば、過酸化水素水にしばらくつけておけば、古びた蛤碁石が白く輝くようになる。作り手の最初からの選択で、駒を拭き漆の手法で仕上げて木地の魅力を発散させる手法もあるだろう。

    しかし、一度作り手がこれで良しと判断して完成させた作品を、早くから木地の凄さを強調しようと、たちまちに薬品処理してしまうのは意味が違う。しかも難点が発生したことを判っているにもかかわらず、それを世に知られた代行業者を通して売り抜こうとするならば、本当にさもしい非道となる。(そうでないことを願っているが・・・)

    何故なら、そんな所有者に人為的工作を施された駒であっても、作り手は、責任を負わされることになるからだ。まるで関知もしない知らないことでも、結局は作ったのは誰々だということになり、やがてはあの作者の駒は・・・などと噂される事にもなりかねないではないか。同時に加工の失敗を内緒にして平然と外に出してしまうなら、敬愛すべき作者への冒涜である。

    誤解のないように繰り返すが、自分の手元に置いて楽しむのなら自由である。しかし自ら他者の作品に薬品加工の手を加えたものを、その本来の作者名で売り抜こうとするならば、その瞬間から悪行となるだろう。

    自然に任せた駒木地の変化を10年、20年かけて味わい尽くすのが、結局は駒ファンの高尚さなのではないかと、今の私にはそう思えてならない。人為的に手を施すのは、ブローカー的野暮な振る舞いに他ならないのではないか。

    完成した駒作品が、僅か数ヶ月、数年で凄いと感じるほど駒木地が変化する駒は、疑ってみた方がいいのかも知れない。じっくりと時間を刻み込んで黄楊の木は変化するものだ。現存する過去の名作は、あくまでもゆっくりとたゆとうように時間に揉まれてきたからこそ、名品の味わいを発散しているのだろう。

    そんな目線で、駒を見つめたい今日この頃である。






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