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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    失語症的症状? 

    JT
    近頃、私は私自身の言葉を失ってしまっている。

    ここ7年の間、このささやかなブログを通して、せめても筆先を鈍らさないように、折に触れて関心ある事柄を書き記してきたが、コツコツと積み上げてきた(本来怠け者の私だが、相当な覚悟と努力を続けてもきた)ものと、現実社会のご都合主義の風潮や刺激の無さに、何となく違和感を抱き始めてしまっていたのだ。

    こうなると、今このとき、なにをどう料理して文章にすべきかというモチベーションはいっきに下がって、もうどうでもいいんじゃないかと、無力感を思い知らされることになる。

    まあ、例えば倦怠期の夫婦とか恋人同士とか、慢性疲労の蓄積で闘志の湧かなくなったアスリートや受験生の心境、とでも言えばいいのだろうか?

    で、ずっと文章修行も感性磨きのお勤めも隅に追いやって、沈黙の日々を過ごしていた。いや、黙って沈黙しているのも、逆にときたま沸き起こる言葉が内向きに向かって攻め立てて来るので、結構つらいものがあると教えられもした・・・。孤独に過ごすのは、他者との気分転換のくだけた会話もなく、逃げ場も失ってしまうのだ。うーん・・・。

    とは言え、昨日あたりから刺激を感じさせてくれなかった世の中も、何となく何かが起こりそうな気配があるようだ。
    私の失語症的症状も、そろそろ回復の兆しが生まれてくるのかも知れない。
    さて、どうだろう?




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    9月6日 大内延介九段を偲ぶ会~竹橋:如水会館 

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    竹橋:如水会館に着いたのは会が始まる20分ほど前だった。
    そのまま受付に向かうと、すでに一部開場されている部屋の中から、手を上げて合図を送ってくれる人物がいた。
    エッ?誰だろう?と、目を凝らしてみると、何と駒師出石だった。ここしばらく連絡もしていなかったので、久し振りの再会だったが、時間の空白など少しも感じることはなく、この時代にそこにタバコ仲間がいてくれた心強さに安心感を覚えただけだった。

    で、そのまま連れ立って3Fの喫煙デッキに向かい、一息ついて会場に戻ると、パテーションが開けられ献花の祭壇が飾られたその隣では、バイオリンとピアノの生演奏が始まっていた。

    午後5時。「大内延介九段を偲ぶ会」が始まった。会場には、故人を偲ぶ150人ほどの人たちが集まっていた。

    棋士で言えば、佐藤康光会長、西村九段、郷田九段らがいたし、勿論孫弟子の藤森五段、梶浦四段をも含めて大内一門は勢揃いしていた。

    会が進めば進むほど、故大内九段の人となり、交友の広さが浮かび上がってくるように感じてならなかった。改めて価値ある人を失った無念が会場を包んだ。

    5月5日のこどもの日、私は大内九段とお会いしたが、そのときの病にやつれた姿に、実は大きなショックを覚えていたのである。その半年前に会って、冗談を言い合った時とはまるで別人の姿だった。いつもの大内九段特有の精気が失われていた。だからこうなることは予感していたが、それでもまだ何度かは会えるはずだと信じようとしていたのだ。

    しかし前立腺癌は、おそらく腰骨にまで骨転移し、その転移は肝臓に達してしまったのではないだろうか?同じ流れで身内を失ったことがあるので、医者ではない私でも想像はつく。

    そう言えば、あのとき愛知・豊川の駒師清征が持参した2組の「怒涛流大内書」の彫り駒は、大内九段の遺品となってしまったが、それは鈴木大介九段が受け継いでくれたという。

    その鈴木九段と、私と出石は会場で話をした。
    「あの怒涛流大内書は、私がお願いして、一昼夜をかけて大内九段が書を仕上げ、この駒師出石が駒書体として完成させた言わば大内一門の宝物です。ぜひ鈴木九段にきちんと受け継いでいただきたいんです」
    「そうですか。あの彫り駒もいい駒ですよね。先生の書体ですから大事にしなければいけませんね」
    「出石は大内九段から依頼を受けて、すでに10数組の怒涛流盛上げ駒を作っています。これからのことはこの駒師出石と連絡を取り合って下さい」
    「そうしましょう」

    会が終わっての帰り道、私は出石と大内九段のことを改めて想い出していた。まるで子供のように楽しそうに詩吟を朗詠してくれたその姿。落語好きな出石の兄の小噺を一緒に聞いたあの日のこと。出石を翻弄した自宅での記念対局。神楽坂:龍公亭での美味しい中華食事会。盛り蕎麦をお代りした日暮里:若松での蕎麦会・・・・。そこにはいつも、その程度のものでは満足も納得もしない大内九段の心意気ある姿があった・・・。それが粋だった・・・。

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    故大内九段が、この日の偲ぶ会の参加者に最後に手渡したのは、「木鏡」と記された扇子である。
    浅学ながらその意を解釈すれば、「飾らぬありのままを映す」というようなメッセージに受け取れる。
    木には、素朴で飾らないありのままという意味が古来より込められている。水は、飾ったお化粧姿も包み込んでしまうが、木にはそれがない。敢えて「水鏡」とは記さず「木鏡」と記したことが、おそらく大内九段の遺言なのだろう。
    重く深い言葉である。









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    2つの案内状(桂文生独演会と故大内九段を偲ぶ会) 

    もうずっと太陽の姿を見ていないような気がする。

    照りつける陽光、透き通るような青い空にムクムクと聳え立つような白い入道雲。8月の夏の記憶は、私にはそれが全てであるのに、止まぬ雨故に湿気混じりの日々が続いている。

    湿気は私の体調維持には大敵なのだが、どうしようもない。自然の力には為す術などないのだと、諦めの日々で、ただただじっと時の過ぎるのを待っておとなしくしている。「ひよっこ」と「やすらぎの里」と、「竜星戦」「銀河戦」に週末のGCの「競馬中継」をひたすら友にするような生活態度は、世間様からから見れば、実に非生産的な愚かしい姿に見えるのだろうが、身体がだるく、それでなくても冴えない頭も働かないような現状では、気だけ焦っても如何ともしがたいのだ。

    そんな折、2つの案内状が届いた。

    DSCN2601.jpg ひとつは、第1回桂文生独演会。8月26日午後6時開演の池袋演芸場。

    78歳の文生が「一人酒盛り」と「転宅」のふたつの噺を演じ、助演は、弟子の桂扇生が「千両みかん」、桂文雀が「尼寺の怪」
    をかける。
    これはもはや、桂文生の遺言の様な高座になると思い、行くことに決めた。(いえ、勿論半分本気で半分はジョークですから)

    興味のある方がいらっしゃれば、ぜひ池袋演芸場でお会いしたいものである。(ちなみに当日券は2500円です)

    そう言えば、今は亡き大内九段が、桂文生の噺を国立演芸場で楽しんで、
    「いやぁ、さすがでしたよ。文生師匠の噺は本物です」と、嬉しそうに眼を細めて言っていたのを想い出した。


    もうひとつの案内状は、
    DSCN2600.jpg その「大内九段を偲ぶ会」の案内だった。

    9月6日一ツ橋「如水会館」。
    優しく、厳しく、人情には厚くも一言居士だった故大内九段の人となりに、ここ6年以上もの間身近に触れることになった私には、駆けつけても行かねばならぬ会だろう。明日にでも、出席のハガキを投函しようと思っている。

    4五歩と指せば名人となっていた。1975年第34期名人戦第7局。しかし大内9段は読み切っていたのに、魔性の何かに取りつかれるように5手先に指すべき7一角と指してしまっていたのだ。名人位に限りなく近づき、ほぼ手中に収めた瞬間に、全てを失った大内九段。そのときの話を、大内九段自身の口から聞くことができたのも、今となっては私自身の大きな財産である・・・。


    私自身が今こうしている間にも、世の中は少しずつでも動き続けている。多くの人々を乗せて走る列車のようだ。病ある身故に、ある時から私はそんな列車に乗り遅れてしまった。しかしそれでも、ハァハァと喘ぐ吐息で、何とか追いつくようにと最後方で踏ん張ってはいる。だから、この夏の終わりのふたつの会には、ぜがひでも出席したいのだ。





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    怒涛流・大内九段逝く 

    DSCN2442 (2)<怒涛流彫り駒>

    成田屋市川海老蔵夫人小林麻央が闘病の果てに逝ったと同じ6月23日、将棋界でも、もう一つの貴重な命が失われていた。
    昭和の風情を身をもって現していた大内延介九段が逝ってしまったのである。

    5月の連休のとき神楽坂でお会いしたのが、私には最後の機会となってしまった。ここしばらくの間に体調を崩されていたのが私にもはっきりと判り、同行者と共に少しばかり驚きを覚えてならなかった。いつもの気風の良い江戸っ子気質が消えて、大内九段らしさが伝わってこなかったのだ。

    私が、縁あって大内九段と身近に出会ったのは、確か6年ほど前だった。その関係が続いていたのは、物事の是非をはっきりと口にする大内九段に魅力が溢れていたし、棋士として積み重ねた人生経験に根付くその人物評も、的を得て正確で、同じような性格である私とも気脈が通じて止まなかったからである。だから会えば、いつも楽しく話も弾んだし、教えを受けもした。

    まだ訃報を知って間もないので、ただただ合掌するのみという心境である。21世紀の鬼才棋士として日々成長を遂げている藤井聡太四段がデビュー以来の負け知らずの29連勝記録を達成した今日、大内九段の7月17日のお別れ会の予定が連盟から発表された。75歳だった。

    ひとつだけ胸を張って言えるのは、先月お会いしたとき、ある若手駒師が製作した大内怒涛流の2組の新作彫り駒をお渡しできたことだ。
    そもそもは、1年ほど前に大内一門の期待できる若手孫弟子の生涯の研究用の駒として作ってみたらどうですかと提案したことからこのプランは始まったのである。私は、大内九段が師匠土居市太郎から贈られた無銘だったが水無瀬の彫り駒を生涯の研究用の駒として身近に置いて愛用していたことを知っていた。それは明らかに若き影水が自ら作った駒だった。
    だからこそだろう。大内九段も「いや、それは楽しみですねえ・・」と乗り気になってくれた。
    それがようやく完成して、上京した若手駒師が直接に届けたのである。大内九段がおそらく生涯最後に手にした新作駒となった。
    しかしその駒が、2か月も経たないうちに大内九段の遺品となってしまうとは・・・。寂しく哀しい物語になってしまった・・・。

    今はただ、大内九段のご冥福を祈るばかりだ。

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                <怒涛流彫り駒>清征作~彫りの蜂須賀直伝の教えをも受け、成長株の駒師である。






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    写真家浅井秀美 写真展~皆野・ムクゲ自然公園内「森の美術館」 

    ダービーの頃、中野「廣」の会の参加者でもある浅井秀美から案内の封書が届いた。

    秩父・皆野ムクゲ自然公園内の「森の美術館」で写真展を開催中とのことだった。すでに5月20日から始まっていて、6月4日までの予定である。

    私の住む山中から、ムクゲ自然公園までは、車でおよそ20分の距離だが、これまで国道140号から皆野・寄居バイパスを通過することはあっても、ムクゲ自然公園には行ったことがなかった。で、地図を頼りに土曜の6月3日に行ってみたのである。

    ムクゲ自然公園は、140号から皆野・寄居バイパスに入る右隣にあった。が、私には未知なる領域で(山暮らしをしていても、異邦人の私は地元のことをあまり知らないのだ。(他所から来て、地域外に出向く仕事しかしてこなかったのだから、当然と言えば当然である)恥ずかしながらこれまで一度も訪ねたことはなかったのだが、今回初めて自然公園の存在を知った。

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    写真家浅井秀美は、1970年頃から中央競馬会のカメラマンになり、その後「三井フォト」を設立して代表取締役となり、専属カメラマンとしても活動してきた。
    JRAのレースに関わる写真が必要な場合、多くのマスコミが写真提供を相談する窓口が「三井フォト」であり、浅井秀美自身もおよそ半世紀に渡ってゴール前を撮り続けてきてもいた。競馬を記録し続けてきたカメラマンである。

    いやそればかりではない。最近刊行された「東京下町日和」なる浅井秀美の写真集(これはモノクロ300点の時代証言だ)を見ると、彼のほのぼのとした優し気なカメラ視線も明確になる。

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    競馬写真は、こんな具合だ。     DSCN2503.jpg

    「森の美術館」は広かった。浅井秀美は、展示準備に3日間を費やしたと苦笑混じりに言ったが、おそらくその通りだと思えた。

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    ゆっくりと展示写真を楽しんだが、かなり根気が試される枚数が展示してあったのである。

    見終えてから、浅井秀美と、地元吉田地区(花祭りや農民ロケットで今や著名となった秩父吉田である)在住の絵かき「さもじろう」と歓談したのが、楽しい時間となった。「さもじろう」は、市内影森で生まれて若いころの4年間ほど東京・練馬で過ごし、その後地元に帰って、今は吉田に住んでいるという。アナログ的なほのぼのとした作風が、実物通りの雰囲気を醸し出している絵かきであった。仲間に紹介されて東京で浅井秀美と知り合い、その後長い付き合いを重ねて、今回の写真展も中心となってヘルプしたのだという。持つべきものは、気の合った仲間ということなのだろうか。浅井秀美自身もまた、「さもじろう」の原画を50点ほど蒐集しているとも聞いた。

    こんなほぼ手作業の写真展も、出会ってみればなかなか良いものだと、知らされた土曜日だった。









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