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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    子供の王国~落日への風圧 

                        morobosi daijirou (2)(諸星大二郎著作より)

    とある、日出る処のファーイーストに所在する王国。
    恥じらいを知る識者たちは、思いのたけを込めて「子供の王国」と呼んだ。

    それもそうだろう。そもそもその国には、かつての悲劇的戦争への反省を踏まえて、老いた身体を鞭打つように、平和平穏をを祈念して民人の間を訪れ続けられるミカドご夫妻ががおられるのに、いつの間にか、そうだ5年ほど前から、勝手に絶対王権のキングやクイーンのように立ち居振舞う民間人夫婦が生まれてしまったのだ。如何なる理由があろうとも、5度選挙に勝たせてしまった事実は、制度の中で思いもよらなかった王国を生み出してしまったことになる。さしあたり信じてしまった民人も愚かだったということなのだろう。本質を見抜けなかったのだから。

    かつて薩長の田舎者たちが、庶民が切り開いた華ある江戸の文化を蹂躙しまくってしまったが、今また長州者が悲劇の果てにようやく手にした「民主主義制度」を破壊しまくっている。手法は、耳障りの良いその場しのぎのご都合主義と、恥を知らぬ嘘の連発である。
    ひとつの嘘が新たな嘘を呼び、挙句の果ては公安による謀略と弾圧までもが蔓延り、歴史に責任を負うべき公文書さえも、公僕たる役人自身が矜持を捨てて改ざんに励んでいる始末だ。

    国のこの先1年や、この先の未来にどう責任を果たしていくかを問われる国会も、まるで「子供の国の学級会」の様相で、無教養であってもいいところの衆が、すさんだ目つきで跋扈して、いじめやハラスメントを繰り返し、自らと自らのお友達に都合の良い嘘を繰り返している。同時に寄生虫のように利をも仲間同士であざとく漁り尽くしている。

    子供の国のキングとクイーンは、貪欲に何かを欲しがる上目使いの輩の心にもない世辞と御愛想に囲まれて、日々増長して調子に乗って、まるで絶対主義国のキングとクイーンであるかのように振る舞っている。

    だが平和を祈念され自らの信念で民人に励ましを届けられてきたミカドが、その齢と健康を考えられて退位され、きちんと帝王学を身につけられた新しいミカドが即位されようとする今、どうやら「子供の王国」には、崩壊の嵐を呼ぶ風が吹き始めたようだ。まるで邪悪を駆逐するかのようにだ。

    さてこれからどうなるか?予測はつかないが、ただひとつ言えるのは、一度でも失った信義は、疑念を呼び起こし続けて、そう簡単には回復されはしないということだろう・・・・。


    ここ数週間、何を言葉に発してみたらいいのかと考え続けていたが、呆れるほど愚かな時代と「子供の王国」を意識すればするほど、何の言葉も思い浮かばなかった。今の私には、そもそも「子供の国の学級会」に参加するほどの体力が余ってはいない現実があるし、恥を知らない人たちとどう会話していいのかも判らないのだ。

    沈黙の中で発見したことは、ただひとつ。虚無と憎悪と報復は、テロ衝動への魔境の三角地帯と成り得るということだった・・・。
    普通の人々の1員でしかない私でさえも、突き詰めて潜在意識を探っていくと、ス~ッとそんな感情に引き寄せられもする。戒めておかねばならない・・・。







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    category: 世相を読む~極私的注目のままに

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    「信」という言葉 

    JT
    「信」という言葉が、その意味をすり替えられてしまって久しい。

    信用、信頼、信義、信実、信念・・・信仰、信徒などという熟語もある。

    「信」という言葉は、人偏に言葉という構成だ。つまりは、人の言葉によって、信用も信頼も信義も信念などもが生まれていることになるのだが、21世紀になってから、それも特にここ5年ほど、人の言葉がこれほどまでにいかがわしくなっている時代風潮は嘆かわしさを超えている。

    社会の上に立って粉骨砕身の精神で下々の小さな幸せをリードすべき存在が、率先して「信」という人が発する言霊の精神を裏切っているのだから、何をか況やである。過去には三菱自動車や雪印、今は日産や神戸製鋼に象徴される大企業も然りである。

    教育を商売にする輩の学園の「誰かのお友達である」責任者が、引きこもったまま何らの言葉をも社会に発しないままに、莫大な公有地や予算を得て認可される不思議さも同様だろう。社会に発する責任者自身の言葉もないのだから、「信」など生まれようもないが、もっと不思議なのは、それを取り巻くお偉い方たち(たぶん自分が選民だと自惚れているだけだろうが・・)の言葉に、「信」の気持ちが全く抱けないのは、いったいどういうことなのだろうか?

    答えは、判り切っている。それらの言葉に、包み隠そうとする偽善・欺瞞はあっても「信」の裏付けがないからだ。

    「信」を失った時代、「信」を失った社会が行きつく先は、ああ言われたらこう言い返して、既成事実を作り重ねていく不誠実な時代と社会だろう。誰も責任を取らず、最大多数の最大幸福ではなく、最小少数の特権的幸福を調整する選民社会に夢と希望の未来などありえない。

    何となく、次代が不安な世相が続いている。正直、怖さを覚えるほどであるのだが・・・。




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    世相を妄想してみた 

    JT

    世の中、いろいろと騒がしく、アンフェアなことに憤ってみたり、暑さ故のまとわりつく汗のべたつきにイラついたり、厚化粧且つだて眼鏡の58歳のカン違いオバサンに呆れてみたりして、なかなか平穏な心で毎日を過ごすのは難しい。

    で、ついでだからいろんな事を妄想してみた。

    K学園問題。核心を守るための様々な都合の良い嘘が積み重なっているだけに、嘘をついた側の論理破綻は、今でももはやおかしさが露呈しているが、やがて決定的に明らかになるだろう。世の中には、それなりの良心や義侠心は存在しているものだし、それがすでに大きな固まりとなって不信の世論ともなっているのだから、もう誤魔化しや言い逃れはきかない。

    この際だからK学園グループの系列大学を調べてみた。岡山理科大、倉敷芸術科学大、千葉科学大。らしい名前が付いているが、いずれも偏差値45ほどで合格できる大学らしい。偏差値45で千葉科学大は薬学部に入学できるが、国家試験に合格して薬剤師となれる人数は本当に少数で、2015年2月19日、文科省が発表した大学の新設学部、学科を対象に行った「設置計画履行状況等調査」では、「大学教育水準とは見受けられない」「学士課程に相応しい授業内容となるよう見直す」と、報告されている。
    英語は、be動詞の活用や過去形あたりから、数学は百分率や分数の計算から教えてくれるそうだから、凄まじく丁寧なカリキュラムというか、あるいは大学の名に値しないカリキュラムというべきか、入学したこともないので、ちょっと判らない。
    同じ系列となれば、岡山理科大にしても似たりよったりということだろう。(敢えて触れておくが、すでに通ってそれなりに頑張っている学生たちには、自身の夢の実現に向かって一層精進して欲しいと願うばかりだ。自分を磨くのは、誰でもない自分自身なのだから)

    そのグループが、国家戦略特区という大義のもとに今治に獣医学部を創設するという。所謂石破4条件を満たして、世界に通用する獣医学部が誕生するのだという。グループ系列大学がbe動詞の活用や分数の計算から大学で教える現状であるのに、岡山理科大獣医学部だけは、並み居る日本の獣医大学を凌いで世界最先端レベルの獣医学部を目指し、その水準にある獣医師を養成するのだという。ヘェーッと感心するしかないが、「駄馬は調教しても駄馬」と最後に書き遺した亡き父のメモを思わず想い起してしまった。こういうのを、世の中では「捕らぬ狸の皮算用」とか「鬼も笑い転げる勝手読み」とかいうのだ。


    さて話は飛んで、すでに超特急のスピード進行で「共謀罪」の法が施行された。確か277の犯罪に適用されるのだという。
    法律の専門家ではないから、ここから先は個人的な妄想が始まる。

    もし仮に、国家や地方自治体から、資産や予算を奪おうという資金略奪テロを、権力を有するとあるグループが計画して、謀議を積み重ね、それを実行したとしたら「共謀罪」は適用されるのだろうか?いやいや、共謀罪適用は、共謀時点での事前捜査を可能にする法律なのだから、実行された時点で別の刑法によって裁かれるのだろうか?

    いやまあ所詮妄想だから、法の専門的知識は敢えてふっ飛ばして、妄想を続けよう。

    とある極東某国の出来事である。かつて中南米にはゲバラという革命戦士がいたが、極東某国の首相は、ゲリバラ首相と密やかに囁かれていた。(本当のことを言うと、この私自身も脊髄を病んでからは、その影響で深夜早朝のゲリバラ過敏症候があるので、その辛さは理解しているから触れたくはないのだが、心を鬼にする。多くの場合ストレスが関係していると実感している)
    そのゲリバラ首相は、ある日、数十年来の友のために、国家資産や自治体予算の収奪を計画して、実行に移し始めた。首相になりたての頃はこうるさい大臣もいたので、それでもまだ遠慮がちだったが、何回か選挙を重ねるたびにオレ様だから勝ったのだと増長して、周囲にお世辞を言うお仲間だけを寄せ付けるようになり、瞬く間にそれまで隠していた人格を顕わにするようにもなって独善化した。そうなると手がつけられない。誰も押さえつけることはできない。諫言すれば、人事権を忍術のように使って報復されるからだ。でも黙って従ってお愛想笑いをしていれば、それなりの待遇も時には付届けの贈り物さえ届きもした。この辺はぬかりなかったのである。

    手先となって家庭内別居しているゲリバラ夫人までもが、せっせせっせと「私人」の振りをして5人の公務員秘書を伴って、まるで極東のイメルダ夫人のごとく動き回り、官房長官を筆頭に、官房副長官から内閣府の役人から所轄官庁の大臣までが醜く蠢いた。曰く「最高権力者のご意向」と。勿論その周囲には、民間政商や民間の振りをした似非インテリ人たちも跋扈した。

    栄耀栄華は極まったかに見えたとき、そんな権力の砂上の楼閣は、これまで「こんな奴ら」と人格さえも与えていなかった多くの人々の反感・反発の前に、突如として崩れ落ちた。跡形もなくだ。失政というよりは(いや勿論極まった失政なのだが)、それ以上に人として信じられない!という憎悪のような感情の反発が、巷に溢れ返ったのである。

    そして「共謀罪」適用によって官邸の周りには、誰もいなくなった。多くの高官たちは罪を減じる司法取引制度を活用して、言い逃れを画策し、内部分裂も甚だしかったのである。
    後には、もはや廃墟となった官邸が古びたお化け屋敷のように残っただけだった。

    やがて顔を浮腫ませ、か弱き1個の動物になったゲリバラ元首相は、最先端治療を受けるため四国今治の国家戦略特区に向かい、他でもない生物として獣医学的な診療治療を受けたが、その後どうなったか消息は明らかにされなかった・・・。

    こんな茶番の、喜劇にもならない笑劇を妄想するほど、本当は暇ではない(そう言っておくことにする)のだが、思わずそうしてみたくなるような憂鬱な湿気混じりの暑い夏と、極東某国のあるがままの姿が曝け出されている。
    嘆かわしいにもほどがある・・・。






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    「こんな人たち」と「お仲間たち」 

    JT

    「こんな人たち」の輪ががうねるように叫んだ。「退場!」と。

    名指しされて糾弾された人物は、人の輪に向かって指をさしながら、ムカついた感情を発露した。「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」と。

    このシーンこそ、今の日本の悲劇と喜劇が同存する危機的状況を、まさにシンボライズする光景だった。

    「こんな人たち・・」と絶叫したのが、狭量な同時に反知性主義(幼少期にしつけが怠られた根本的に無教養という意味で使っている)の権力者であり、指さされたのが、おそらく政治的に動員されたテロリストや運動員ではなく、揺れ動く大波のようにその場に集った普通の市民である。「退場!」の叫びは、彼らのせめてもの自己表現だった・・・。

    ボスにはボスの度量というものがある。これまでの歴史を紐解けば、それは一目瞭然とも言える。とある国や組織が疲弊するはのは、多くの場合、ボスが自分以上の力量を許容・理解することができず、周辺に自分以下の(自らの安泰が保証される)人材しか集められない歪みがやがて矛盾として表面化することにあるのだ。

    そう言えば、「こんな人たち」と指さした権力者は、忠実な「お仲間たち」の処遇は手厚いらしい。薄気味悪いほどだ。M学園や、K問題も、そうした構造の中で国有財産が私的に流用され、国や地方自治体の予算も分不相応に投入されようとした。一方で「お仲間」の分裂が始まり、一方の当事者は「お仲間」を相互扶助するかのように沈黙のまま権力の岩壁に隠れて身を潜めている。

    また忠実なしもべの様な「お仲間」ならば、レッドカードをも、何と法律までも無視して、レッドカード行為すらないものとして守られる。「こんな人たち」の良心はいささかも顧みられることはなく、一切は、御用新聞を読め、印象操作だ、丁寧な説明や審議を心掛ける、多くの原因は決められなかった前政権の所為だ、オレ様は立法府の長だなどと不勉強な物言いで、全てを自己都合で丸め込もうとする。

    もうひとりのこれもまた忠実な番頭役は、陰険老獪且つ醜悪な能面顔で、「あり得ない」、「全く問題ない」、「指摘は当たらない」と、記者会見の記者の質問を絶えず遮って、それ以上の質問の幕引きを図るかのように高圧的に嘯き続ける。

    ここ4年半も続いて普通になったこんな光景が、今のこの国の本当の危機なのだ。

    それを許してきたのは、この間に行われた数度の国政選挙の結果である。無党派とひとくくりにされる人たちが、冬眠状態のままで起きず、結果的に実態が検証されることもなく雰囲気だけの組織的投票が有効化したからだった。

    しかし4年半。支配する官邸の恥を知らずに強権的な手法も、ついに金属疲労を起こしてひび割れが始まった。
    限度を超える恥知らずな横柄さに、さすがに多くの人たちが覚醒したのだろう。我慢強い民人の住むこの国には、お上の立ち居振る舞いが許容の限度を超えたとき、一揆などの蜂起がおこった歴史がある。

    7月2日の都議選は、まさに民衆一揆の様相で、その中身はまだまだ不確かだが、首都東京の権力構造は一新した。

    8%ほどの投票率アップ。無党派の中の2割か3割の人たちが「こんな人たち」と指さされることに怒りを覚えて立ち上がるだけで、今の状況や景色は一変するのだ。このことを忘れてはならない。

    同時に、本来受け皿にならねばならないどこかの党も、いまだユダの様な戦犯元首相が過去を忘れたかのように幹事長を勤め、カリスマ性も存在感も発信力も無い党首と、本当に闘う覚悟の無い姿を曝け出している。あの「コンクリートから人へ」という希望に満ちたメッセージ以上の言葉をひと言も発することもなくだ。

    となれば、もう一度受け皿の再編が必要なのかも知れない。しかしそれとても度量あるボスが、私心なく理念のもとに人々を集め活用できるか否かなのだが、まだそれほどの存在が見つかってはいない。

    「こんな人たち」の声をまとめるボスが生まれ得たとき、見せかけの権力交代ではない新しい日本が生まれるのだろう。

    私自身も、しがない「こんな人たち」の一員だが、(いやその瞬間に秋葉原に行っていないので単なるシンパでしかないが)、そんな「こんな人たち」に、せめても生きる夢や幸福感を与えてくれる本物のボスが現れてくれるのを、ジリジリしながら待ち望んでいる。






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    大根を縦に切るか、輪切りにするかという形而上学? 

    syou6-cyuu1 08-09 116 (3) コンビニの、おそらくほとんどの街のお店でも、おでんの大根は、ほぼ輪切りだ。ホクホクとして、歯応えもある。それなりに出汁もしみて美味しい。

    あるとき、縦に幅1㎝ほどに切り落として煮込んでみた。すると歯応えが柔らかくなり、また別の大根の味がした。そしてこれもおいしかった。個人的には、縦切りの方が好みとなった。

    一つの同じものでも、アプローチの仕方によっては別物になるということなのだろう。

    今日未明、安保法制が、集団的自衛権を認知する形で参議院をも通過した。降りしきる雨の中、国会前に集った民衆の声は、永田町の傲慢な選民意識の中の良心に届くことはなかった。

    そもそも昨年12月の消費税を問う形で解散された総選挙で、欺かれて多数を与えた民衆の側が甘かったと言うしかないのだが、それとても作為的に作られた株高をデコレーションして詐欺的手段で騙しぬいた側に、より罪は大きい筈だ。選挙マニュフェストにほんの少しだけサラッと流した項目が、半年後には大々的な国家的課題のように変わっていったのだから。

    結局、その目的とは何だったのだろうか?
    仕組まれた株高(好景気演出)、閣議決定、秘密保護法制定、ガイドラインの指示を受けてのいつもお定まりの対米追随、騙まし討ちのような総選挙、積極的好戦主義のような従順な相手にはお金に物言わせバラマキ、対立国家とは敵対して周辺の危機を煽り立てる外交、憲法を頂点にする立憲主義否定、内閣法制局やNHK(最高裁判事などその他おそらく隅々までの)人事介入、強権的圧力をかけてのマスコミコントロール、福島の現実を無視しての川内原発再稼働、民意を踏みにじる辺野古移転強行等々・・・。全ては、どこかで決められた下手糞なシナリオ通りに進んだ結果である。こんな弾圧恐怖政治が、あっという間に近代国家日本の政治風景になってしまっている。選挙で数を与えると、こんな、とんでもないことになることを、私たちは教訓として学ばなければならないのだ。

    「国民の命と平和を守るために」と、何度も紋切り型で立憲主義の意味すら理解できない愚鈍の裸の王様のような首相から繰り返されたが、このとき言われる国民とは、決してあなたでも私でもなく、愚鈍の権力者に媚へつらうお友達だけが彼のイメージする国民だったのだ。そう考えると、いろんなことが納得できるというものだ。

    今、幼子を育てる多くの母親たちは、いつか戦場に送り込むことになるかも知れないと、これからは言い知れぬ不安を抱えるだろう。これまでは、専守防衛を理念として掲げてきた憲法9条が、すべての法案の土台となっていた。しかし、これからは好戦的な兄貴分アメリカの不条理な意を受けるまま(今のアメリカは理念ではなく利に走るだけの物欲主義的存在となっている)に、集団的自衛権の行使を認める新安保法制が原点の土台となってあらゆる法が作られていくのだ。放って置いたらすぐに社会の風景は別なものになるだろう。

    どこやらの首相には育てる子供がいるのかいないのか、私には定かではないが、もし子供がいないのなら、私たちやあなたたちの子供たちの未来への不安は、一片の配慮すらない貧しい想像力の中で決まったとも言える。

    専守防衛と平和主義を掲げた現憲法の理念を失うことは、戦後70年間に渡って私たちが世界と対峙する術としてきた最高の(他者には持ち得ないという特権を有していた)形而上的攻撃的兵器を失い、貧困と対立とそれ故にこそのテロの土俵に自ら進んでのめり込んで行くことなのではないか?何故今、そんな選択を敢えてしなければならないのか?不思議なことだ・・・。

    今、私の眼の前には、ホカホカと湯気を上げる輪切りの大根と縦切りの大根が別々の皿に盛られている。どちらも和風出汁が効いて、おいしそうだ。

    もしそこに、突然闖入者が現れて、「大根はアメリカ的料理法こそが正義であって美味しいのだ。それはあなたを守る集団的自衛権行使だ」などと言われても、うるさいハエを払うように追い返すだけだ。

    そうか。この和風出汁の味わいを守るには、違憲立法審査会か次の選挙での1票の権利行使しかない訳だ・・・。そのときを首を長くして待っているしかないのか・・・。でも、必ずその日は来るのだ。

    ああ、待ち遠しいと思うと小腹が空いて、私はホクホクの大根を、フウフウ言いながら平らげたのである・・・。






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