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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    「名を捨てて実を取る」ということ 

    由進作 勝運駒 勝つか負けるか?

    最初は、目標実現のための大まかなる「大同団結」かと思った。

    分断された細かな固まりが、とりあえずひとつに固まって、より大きな集合体となる。後のことは、固まった中で徐々に整理整頓していけばいい。最初から前提の条件闘争にはやる教条主義には、発展性はない。おおらかな懐の深さこそが、集団を強化しより大きな人々の固まりとなることを保証するのだが、やはりそのことを理解する度量は伺い知れなかった。

    止揚(アウフヘーベン)という言葉が使われたが、私のつたない学習経験だと、止揚とは、確か弁証法的には、AとBという対立する軸が、真摯な議論によってCという新たなパラダイムに発展するという作用のことである。対立を抱え込まなければ、そもそもアウフヘーベンすらできないのだ。

    そう考えていくと、どこやらの女性新代表は、(レヴェルの低い取り巻きを含めて)すでに排除の論理で限界を示してしまっているし、それなりの資金と数を持っていたはずのどこやらの男性代表は、かつて偽メール事件でそうであったことを再現するかのように、またも詰めの甘さを吐露してしまった。「名を捨てて実を取る」前に「名も捨てて実も母屋も取られてしまう」状態になっている。嘆かわしいものだ。

    今回の喜劇の裏側を勝手に妄想推測すれば、それなりに浮かび上がってくることがある。どこやらの何とか会議が、モリ・カケ私物化首相のやがての失脚に保険をかけるように、結果的に野党第一党を解体・乗っ取りの形で女性新代表の作った新しいグループに肩入れを図ったと考えると、様々なことが納得されるのだが、果たして真実はどこにあるのか?山暮らしの中では、遠い永田町の景色の実態は見えず、勝手に想像を逞しくするしかない・・・。

    アッ、今、気づいたのだが、そうだ、自然と同化する今の私には、摩擦を呼ぶ対立軸が(自分の心の思いと置かれた現実以外には)生まれ得ないので、結果的に私は社会的にはアウフヘーベンしない奴になってしまっているのだ。まあ、それはそれで良しとするしかないのだが・・・。







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    category: 異化する風景

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    8月26日 落語協会特選「桂文生独演会」~池袋演芸場 

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    8月26日 午後6時から「桂文生独演会」が始まった。満席で通路にまで折りたたみ椅子が並び尽くした。

    開口1番は、前座・一猿の「寿限無」。

    次に、2番弟子(いや文生一門には、もう一人同じころに弟子になった文ぶんがいるから、正確には3番弟子か)文雀の「尼寺の怪」。
    暑気払いにみんなが集まって怖い話をし合って、ゾクゾクとしないような話だったら、みんなにたらふくの酒をおごらなければならないことになった若い魚屋が、和尚さんからその昔の怖かった尼寺での話のネタを聞きつけて、これならいけるとみんなの前で披露して、結局はこけてしまう噺だ。

    そして中入り前の文生最初の登場となる。
    待ってましたとばかりに、客席の拍手の音が増し、「転宅」が、酒の噺やあまり飲めない小三治の話題を枕にして始まる。
    以前に太夫だった妾宅に忍び込んだ間抜けな泥棒が、逆に妾となった太夫に財布の中身をからにされてしまうという噺。
    下げに向かう頃には、文生の明るいフラのある顔が、間抜けな泥棒の顔と一緒になってしまう感覚になってくるのが不思議だ。

    そして15分ほどの仲入り休憩。

    1番弟子扇生の「千両みかん」。
    真夏に、艶々しくしかもみずみずしく薫り高いみかんに恋して、ひどい恋煩いに堕ちた若旦那を助けようと、一肌脱いで真夏にみかんを探して奮闘する番頭の悪戦苦闘の噺だ。

    ここまで噺を聞き終えて、ふと私は思った。文生は、自然と顔全体の筋肉を使いこなして、あの飄々とした特有のフラのある表情を作っているのだと。
    そう思うと、前座・一猿は、まだまだ少しも眼元の楽し気な表情を浮かべる余裕のないのが判るし、すでに相当の実力を備える文雀や扇生にしても、もしそのことに気づいて実行してみたなら、さらに色気や艶が漲ってくるのになと感じた。

    文雀は眼尻の表情は使えているが、眼元の筋肉の表情をまだ使い切ってはいない。眼尻ではなく眼元の表情がまだもうひとつかたくなな印象で、そこに文雀自身の自負や自我が意志が漂っている。ここを自然体で崩してしまったら、さらに数段化ける可能性を感じた。ついでに言うなら手先の説明がうるさい部分もある。力のある芸人だけに、ぜひともドーンと構えて欲しいものだ。

    扇生は、江戸の端正な職人の風情を自然と持ち備えている。これは武器だ。この武器を生かす形で、時にメリハリのある大きな目の表情を効果的に作って巧みに間合い(客との駆け引き)を図ったなら、観客はその端正な扇生自身とのギャップにより引き込まれて、古き良き江戸の噺家の味わいをもっと堪能していくだろう。

    おそらく仲入りの間に、文生はなみなみと注がれたコップ酒を1・2杯豪快にあおったのではないか?
    そう思えてならないほど、文生の「一人酒盛」は名人芸に満ち溢れていた。

    とっておきの良い酒は、良い酒だからこそ舌で舐めるのではなく、ゴクゴクと飲み干して喉で味わうのが酒飲みの嗜みと思い知らされた観客は多かったろう。

    自分自身の酒の強さを、ある意味処世の術としてまで活かしきって、先人の名人芸の噺家たちから可愛がられもしてきた文生の、凄味ある噺を聴いた感がある。

    この夜の文生は、かつての名作漫画「寄席芸人伝」の主役キャラを演じられるほどの世界を披露した。

    「(酒の飲めない)留の奴は、酒癖が悪い」と下げを決めたとき、文生に対して、観客席の後方からワーッと歓声が上がった。

    78歳の文生を、池袋に集った観客たちが、まるでアイドルのように迎え入れた瞬間だった。
    芸の力が場内を圧倒したと言えるのかも知れない・・・。






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    卒業アルバム 

    2年前に関東でも起こった線状降水帯発生による洪水被害はまだ記憶に新しいが、それが今年、北九州や岐阜県辺りでも起こった。

    温暖化の影響なのか、地球規模での気象現象は、今大きく様相を変えているのだろう。治山治水のインフラ整備は、想像以上の変貌を遂げている状況に、過去の統計数値も役に立たず対処もできずにいるようだ。もはや頭を切り替えて発想しなければ、命も保証されない時代が到来しているのかも知れない・・・。

    カラッとした暑さならまだ我慢も効くが、ムッとするような湿気混じりの暑さは、ただただ肉体から元気を奪っていくようだ。

    何も手付かず状態で、それならばと断捨離の心で書棚の整理をしていて、一冊の卒業アルバムを見つけた。
    高校の卒業アルバムだった。


    ページを開けると最初に「江原記念講堂」の正面写真。続くページには、あのときの歴史的事件が写真の証言によって再現され、その後におよそ300名の同級生たちの顔写真が並んでいる。

    改めて今、見直すと、このアルバムを作った製作委員会有志の気高い情熱や、このアルバムの存在自体を許容した学園側の度量の大きさや、流れる自由の精神を十分に感じ取れるというものだ。

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    1970年3月から始まった全学集会を経て、4月、突如として現れたY理事長代行(確か旅館業経営者で教育者の資格はなかったと記憶している)による、それまでの自由な精神風土を無視した暴政を(学園資産の独断的売却なども噂されてもいた)、全学集会などの学園正常化を訴える抗議活動を通しながら、翌71年11月に学園生によって遂に打倒したリベラルな抵抗運動の記録でもある。
    71年10月から11月まで、理事長代行は学園をロックアウトして対抗した。学園に生徒を寄せつけない姿勢には、やはり教育者の姿勢はなかった。

    11月15日夕刻、校庭で行われた全学集会はエスカレートし、集う生徒たちに追い詰められたY代行は逃げるように退陣を確約し、翌16日、生物の吉川涼新校長がY代行の退陣発表をして、ようやく事態は収束に向かったのである。

    1年半以上も続いたY代行による力づくの強権的手法は、自由自主の(しかし選択した結果責任は自分自身が負うという厳粛な厳しさがあるのだが)精神風土にはいささかも根付かなかったのである。

    多感な10代のときに体験したこの光景は、実に印象的だった。代行側につく醜悪な教師も眼にしたし、生徒側と真剣に討論した良識ある教師の存在に安心もしたし、ロックアウトの強制的な休日を心の何処かで喜んでしまっている自分自身の愚かさをも知り得たものだった。

    自由な精神風土とは、何物にも拘束されない自分自身だけではなく、もっと大事なことは、相手が邪ではない限り他者の自由を保障・許容することでもある。

    私自身は未熟者だったから、そのことの本当の価値を体得するまでには、まだまだ時間が必要で、見せかけの自由を謳歌して人生を狂わせてしまったが(苦笑しかありません、ハイ)、おそらく10代の多感な時期にその本質を理解し得た優秀な男たちもいるだろう。

    そう言えば、今時の人になっている前川喜平は、高1から高2の時期にあの光景を体感した。少し前の時の人古賀茂明は中3から高1のときに体感している。

    おそらく彼らに共通する力に押さえつけられないある種意地っ張りな感性は、おそらく初々しい10代に体験した本物の自由な精神風土が大きく影響しているのだろう。
    そう思えてならない・・・。










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    さわやかな才能~囲碁・大西龍平2段 

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    いつのときも新しい才能が、新しい感性を伴って出現する瞬間は楽しいものです。

    最近、囲碁・将棋チャンネル「竜星戦」を見ていて、まだ17歳の大西龍平2段の囲碁にそれを感じました。

    資料によれば、2000年3月14日生まれで、まもなく17歳。12歳で文部科学大臣杯少年少女全国大会に優勝し、中1のとき院生となり、2015年に入段。2年目の昨年、16歳6か月で第41期新人王戦を制覇しました。
    小5のときから2年余り韓国で武者修行をした強者です。

    彼の打つ碁のどこに魅かれたかというと、その指し手が不思議なほど観る者の「知性」に訴えかけてくるのです。それは、17歳を目前とする若い大西龍平が囲碁に持ち込んだ新しい感性ではないでしょうか。

    過去には、武宮正樹9段の「宇宙流」に象徴されるように、確かな世界レヴェルの感覚を持ち込んだ偉大な才能がありました。
    勿論、現在の頂点にある井山9段の深い読みに裏付けられた硬質な囲碁(おそらく山下・河野臨らの碁も同じ土俵にあるのでしょう)が主流派なのでしょうが、大西龍平にはそこにしなやかな柔らかさを感じます。それが彼の特徴になっていると、私には思えてならないのです。

    知に響く囲碁。それが面白くて、ここ最近「竜星戦」の大西龍平に注目して追っかけをやっています。

    その意味で、将棋界にも現れた若き新星・藤井聡太4段にも、その感性の在処に早く触れ合ってみたいものです。来季の順位戦が始まれば、その本当の価値も明らかになるでしょう。新しい才能を大きく伸ばすには、浄化された環境を大人たちが用意する必要があるでしょうが・・・。

    現在、大西龍平ら囲碁の若手たちの台頭が目につくのは、伸ばすだけの土壌と進取の心に満ちた環境があるのかも知れません。





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    感想 

    臨時総会(朝日新聞デジタル版より)

    2月27日。午後1時過ぎ。
    東京・千駄ヶ谷「日本将棋連盟」にて、正会員による臨時総会が始まった。

    午後4時半過ぎに流れた「常務理事解任決議」の結果は、現職理事3名の解任、2名の信任というものだった。
    午後5時10分頃からは、決議の結果を踏まえての会長記者会見が行われた。

    NHKの「しぶ5時」に始まって、このニュースは、TVのみならず新聞各紙やネットメディアから全国に流されたのである。

    多くの将棋ファンの義憤の心は、まだ将棋村に少しばかりの良心が残っていたことに安心感を得て、ホッとしたというのが実情だろう。

    でも、これからのことを思えば、これはようやく始まった最初の1歩に過ぎないのだ。「そもそも何故?」といまだに多くの謎が解明されずにある竜王戦挑戦者交代劇が、5か月も経って、真相に近づく契機を得た。しかし、何を目指してどのようにするかは、まだ何も決まってはいない。正会員が一致して了承できる、速やかなルール作りや倫理規定の制定が成されなければ、同じような問題はいつかどこかで繰り返されるだろうからだ。

    1票を有する正会員にとっては、今回の経験は大きなものだったろう。問題意識を集団で共有すれば、民主主義は独裁権力に勝てるし、主権者であれば逆に理事や会長であっても解任できる権力を持っていると確かめられたからである。

    選ぶ自由と選ばれる自由、選ぶ責任と選ばれる責任の、「なあなあ」にすまさない緊張関係があるからこそ全体の組織が機能するのだ。その意味では、今回の臨時総会は、村の三役が偉そうに支配していた将棋村にとっては、権力構造を変える出来事であったと言うべきだろう。

    もうひとつ、大きな教訓も得た。その場しのぎの「小さな嘘」が積み重なると、やがて時間が経てば「小さな嘘」をつく者はみごとに論理破綻に陥るということだ。方便は戦略があるが、その場しのぎの都合の良い嘘には戦略などないからである。

    事ここに至っても、まだ徒党を組んで「小さな嘘」を重ねて塗りたくろうとしている「裸の王様」のような現役棋士もいるようだが、おそらく今回芽生えたこの新しい流れを見ると、遅かれ早かれ自分自身が「裸」であることを思い知らされるのだろう。
    そのときは権力を振りかざした誤った判断で犠牲者を作った辞任・解任の理事たちの最終責任が問われるときでもある。

    たぶんそのとき初めて、昨秋からの異常事態が収束に向かうのだろう。その日の到来を待ちたい。

                            臨時総会結果




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