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    Tsuruki Jun<鶴木遵>の原風景 《絶対零度》

    鶴木遵の本、新しい挑戦、趣味である競馬、将棋の駒、男の手料理、めだかやミジンコ飼育、犬猫のよもやま話、など四季折々に感じたことを発信していきます。

    荒野に光を~また届いた3通のメール 

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    冬の初めからずっと、次から次へとまるで誇るかのように花を咲かせ続けていたシクラメンも、気がつけば、どうやら一休みする季節になっています。

    この1か月、私自身も季節外れの冬眠生活を送っていました。世の中を見渡せば、いろいろと思うことがあって、そのためかまるで気力が湧き起こらず、無理をしても空しいのでじっと精神的に引きこもっていたのです。(いや、毎週の競馬と囲碁将棋チャンネルは見ていましたが・・・)

    そんなとき気力の湧かない私に、3通のメールが届きました。

    「流れが変わりました。
    新たな潮が身体の周りをうねっています。
    精進あれ」

    「今日を楽しみましたか?
    明日はもっと素晴らしいと信じられますか?」

    「幸せとは?
    心の平穏です。
    何かまとわりつく異物感を、削り落とし、削り落として達する無我の境地なのです。
    何かにこだわりつつ、同時に無我に達するアンビバランス。そのことを修行というのかも知れません」

    そうです。どうでもいい、どうにでもなれと、閉じこもろうとする私自身を、もう一人の私が励まそうと送り届けたメールでした。

    自分以外の誰かを頼れば弱みにもなります。でも自分で自分を励ますことができるなら、最高の治療薬ではないでしょうか。

    自分を強くするのは、やはり自分しかありません。

    かつて病に見舞われて苦しみ、大きな手術を受けなければならなかったとき、この辛さを癒せるのは、他者ではなく自分自身なんだと気づいてから、私はときおりもう一人の私になって、自分自身にメールを届けます。

    曖昧模糊とした現実、漠として先の見えないこれからの未来への不安・・・。そんな時代のエアポケットにストーンと放り出された実感するときこそ、もう一人の私のメールは、これまでも私を支えてくれる大きな力となってきました。

    さてさて今回のメールの効用は?それは、しばらく後の私自身の在り様が証明するでしょう。
    効用があって欲しいと願っています・・・。




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    category: 異化する風景

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    山暮らしの日々 

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    春の盛りを迎えて、山暮らしの風景もいっきに変化(ヘンゲ)してきた。

    外の池にカエルが卵を産み落とすことに始まり、花々が勢いをつけて咲き誇り始め、今はソメイヨシノが満開を過ぎてそよ風が吹くとチラチラと桜吹雪を見せ始めている。すでに夏日の気温と天気予報士が言っているが、山の中では猫もうたた寝するのどかさだ。

    山の暮らしもずいぶんと長くなった。脊髄の大きな手術を経て、何とか社会復帰を目指そうとしてからだからそうなるのだが、体感時間としてはアッという間だった。

    山暮らしの中で唯一発見したこと。それは、花も虫も鳥も獣たちも、両生類や爬虫類たちも、日々生き抜くだけの栄養を食らい、それ以上は求めず腹八分を知り、あとは何かに憑りつかれた様に交配や生殖を繰り返して、その一生を終えていくのだということである。

    見守っていると、地球上で生きるという行為は、それに尽きるのだ。ただ人間だけが、強い物欲に見舞われて、他人様以上の収穫のストックを確保しようと蠢いている。人間であるということは、道具を使える知性やあるいは鍛え方によっては気高い思想などを備えていることよりも、実は限度を知らぬ物欲にこそ、人間らしさが特異に表出されているのであるのだろう。

    自然の中の生き物たちは、食らうにしても必要以上の貪欲さを示すことはない。貯め置くストックは持たないし、満たされてさえいれば、蛇とカエルが隣り合わせにいても同存できるのだ。そう言えば、吐くまで飲んで食べ尽くすのも人間であればこそなのではないか?

    人間というのは、かくまでも罪深い特異で度し難い愚かさを持つ地球上生物と言えるのかも知れない・・・。






    category: 異化する風景

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    囲碁将棋チャンネルと将棋連盟HP 

    由進作 勝運駒

    最近TV画面で見るのは、スカイパーフェクトTVの2つのチャンネルだけのことが多い。

    民放TVなど、ああでもないこうでもないと相撲界の話や半島関連の話を聴き疲れてしまっているからだ。

    だから結局は、GC(グリーンチャンネル)と囲碁将棋チャンネルを眺めてしまうのだ。深夜に、ベッドの中で布団にくるまりながら、竜星戦や銀河戦の再放送をかけっ放しにして、そのまま眠ってしまうこともあり、家族からは怒られている。いや、もう諦められているのだろうか。

    その放送の中で、例えば将棋には「めざせプロ棋士」という番組がある。棋士になるための最終関門となる奨励会3段リーグの対局を解説付きで見られるのだ。

    何度も見ていると、だんだん判ってくる。3段ともなると、ほぼ全ての戦型(相掛り、横歩取り、角換わり、矢倉、各種振り飛車等々)を身体で理解してみなが勝負に挑んでいる。

    半期に2名がプロになることを許される現場で、そんな彼らが、最終最後に何を試されているのかと思うと、実に興味深い。

    あるとき、ふと思った。最終段階にある彼らは、最後の関所で将棋の強さだけを試されているのだろうか?と。

    すぐさま私は「いや、たぶんそうじゃない」と、否定した。
    確かに強さや切れ味は、必要条件である。日々精進して積み重ねて来たものの集大成が強さだとすれば、3段ともなれば強さの発揮は当然だろう。
    しかし強い彼らが最後に試されるのは、そのことだけじゃないのではないか?半年に2名がプロ棋士として選ばれるシステムを考えれば、最終関門を何とか通過した若い彼らが、それからの10年20年30年を棋士として日々戦い抜くだけの「勝負師としての粘り」
    「勝負師として生きるための粘着力」あるいは「棋士であるための覚悟」といったようなものを、おそらく最後に問われているのではないだろうか?強さだけではない粘りの心が、棋士となるための十分条件で、それらを合わせなければ、プロ棋士は誕生しないのだろう。

    どんなジャンルでも勝負師たるものの勝負強さとは、技術と素質に裏付けられた切れ味と、簡単には諦めない忍耐の粘り強さであることは理解できる。
    石の上にも3年というが、粘りの人生の中で、ある瞬間に閃いて最善手となる妙手を見つけることは多いものだ。生き抜くということはそういうものなのだろう。

    そんなこんなを、TV画面から見抜きだして、今日も囲碁将棋チャンネルやGCを眺めている。

    ただ、見ていて見苦しく感じることもある。晴れて最終関門を突破して棋士となった彼らが、わずか数年のうちに解説者として登場する。と、聞き手である女流棋士が「先生」と呼ぶ。まだ○○4段や✕✕5段でいいのではないか?「先生」などと浮ついた言葉で呼ばれるのは、タイトルホルダーか、熟年以上の年齢の8段9段でいい。段位で呼ばれることこそ、彼らに対する尊称ではないのか?

    まだある。聞き手役であるのに、解説までしゃしゃり出てくる自己顕示欲の強い女流棋士ら。TVに出演する以上、聞き手に徹してエンターテイメントをして欲しいものだ。

    まだまだある。これは将棋連盟のHP。「本日の対局」や「対局結果」「対局予定」に棋士の顔写真が使われているが、これがLPSA所属の女流棋士やアマチュアだと同一画像にして写真は無し。奨励会3段も同じ扱いだ。身近に顔を知ることでファンは親近感を抱いて応援できるものなのに、いまだ改善する気配もなし。あまりにも失礼この上ない話だ。

    紫綬褒章に国民栄誉賞、新永世竜王誕生に、中学生棋士の世間を賑わす大活躍。去年の今頃の暗さからすると、せっかく明るい朝日が注いでいるのに、いまだに傍若無人な失礼さが闊歩している。いや鈍感さが体質なのかも知れない・・・。




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    師走に思うこと 

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    早くも師走。
    2017年もあと1ヶ月。何かを成した事実もないし、相も変わらずその日暮らしで、時間は追い立てるように過ぎていく。手をこまねいていて、気づけば1年が過ぎている感覚。生きている残り時間はそれほどないのに、抗う術もないようだ。黄昏に包まれて、ただただ儚い未来を前にして今日の危うい時間を綱渡りしている。危ういと言えば危うい・・・。

    世を見渡せば、20歳そこそこの若者が、50年後の年金受給者たることをを強いられ縛られている。国家財政の都合だ。若かりし者にとって、50年後のことなど想定すらできないのにだ。私もそうだった。

    10代後半から20代は、それこそその後の自分の人生を考え、大いに迷い惑う時間だと思う。20歳そこそこで、お前はこういう生き方をせよと、国家のタイムスケジュールで迫られる社会なんて、ある種異常な状況なのではないか?せめて30歳までは考えるモラトリアムの時間が許容されるべきだろう。

    若いうちだからからこそ、失敗も教訓としてやがてに活かせるのに、国が決めたタイムスケジュールに外れたらもはやチャンスはないと、経済的にも締め付けられるのは、どう考えてもおかしい。

    高校を卒業して、例えばケーキ職人になりたいと専門学校に入学して資格を得ようとしてみても、やってみなければ、それが本当にやりたいことか、自分にとって本当にやり抜けることなのかは判らないものだ。でも気づいたときには、すでに高額な入学金や授業料なるものが背負わされてしまっている。職人型職業は、実は専門学校の教育より、実務経験値の評価を重要視すべきだろう。

    大学の専攻にしても、現在のように様々に多様化した学部があれば、何をどう学んでどうしようかなどとは、受験期の時間の中では正しく見極めることも大変だ。

    現在のように、教育の形をとって、それをピンからキリまである教育産業の稼ぎのネタにするようなシステムでは、本人がやっと適性を考えて他の道に転身しようとしても、すでにそのときには高額な返済型奨学金などに縛られて身動きすることさえできなくなってしまっているのではないだろうか?どう考えても、こんな若者の現実はおかしい。

    多くの進学校や予備校のシステムにしても、受験技術が金で買える方法論が主流となっている。要領を金を支払って買う者が優遇されている。本来の学問は、その発想力や創造力も想像力も、自力で身に着けて武装していくことでしか身にならないのにである。だからそんな社会では、出世する人間が実に薄っぺらく深味や重厚感など微塵も伺えないのだ。要領だけが巧みな歪感が無作法に不快感を伴って発散されることになる。

    思えば、国公立大学の授業料は、1970年代半ばまでは月額3000円だった。早稲田だって文科系なら月額10000円ほどだった。
    それでも大学側が授業料値上げを強権で実行しようとすれば、学生たちは体を張って抵抗を見せたものである。

    その後、ある時点から「行政サービスは有料化する」という方針が許容され、決定的には「ゆとり教育」という名の教育産業保護政策が実践されて現在に至っている。ゆとり教育というのは、週休2日のゆとりの時間にせっせと予備校通いでお金を使えという実態となったのがお笑いである。(ただこれは私の記憶だから、今となっては多少曖昧だが・・)

    結局、全ての出来事は、20代の若者から夢と冒険の自由を奪い、経済的支配の実効化が企まれていったのだ。

    20代の時間こそ、おおいに失敗し、挫けず何度もチャレンジして、本当にやりたいことを掴み切る燃えるような初夏の季節だろう。
    大志を抱いて飛躍に備える時間ともいえる。羨ましいほどに活力に漲った躍動感ある時間なのだ。

    今は、暗く凍えるような忙しい師走を迎えたが、若い力はその満ち溢れるエネルギーで、常に初夏から真夏を生きて欲しいと願うのだが、どうだろう・・・。





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    第6感の重要性 

             DSCN0371.jpg(勝負感も知に基づいた第6感である) 絵:N.Akira
     
    人には、閃いて働く「第6感」がある。

    感覚には、視覚、嗅覚、触角、味覚、聴覚を指して「5感」の感覚があるが、それらが機能して働くとある一瞬に、人はある種の動物的本能で「第6感」を機能させるのだ。

    そのためには「5感」を駆使する普段の訓練が必要となる。おそらくそれは、鍛え抜かれたた忍者が皮膚で感じる気配のようなものでもある。

    こんな風にも言えるかも知れない。例えばアスリートがグランドですばらしいファインプレーを実現する瞬間。狙ってやれることではなく、気がついたときには肉体が反射的に動いて、できてしまっていたという結果が後から実感できるような瞬間だ。

    「5感」を鋭く機能させる日常鍛錬がそんなファインプレーを支える。

    現代人は、おそらく「5感」を動物的に働かせる前に、何気なく指先を動かして便利に(しかし動物的には明らかに退化であろう)目先の情報を得てしまっている。時間は節約できるのだろうが、何か大事なものをおろそかにしてしまっているのではないか?

    例えば道に迷って、今自分がどこにいるのか判らなくなってしまっているとき、その問題を即座に解決するには、スマホで地図や現在位置情報を探ればいいのだろうが、敢えて迷いながらも自力で解決してみることに意味はあるのだ。時間と太陽の位置から方角を探ってみることなどから、解決の道は開けていくだろう。

    もし無人島に行ってサバイバル生活を始めるとなったとき、あるいは戦火で焼け出されて難民生活となったときなど、補充電源が失われた1台のスマホより、1本のナイフの方が頼りになるに違いない。
    そんなときは、生半可な情報より、水の在処や食べられるものかどうかの動物的判断の方が有効だ。

    洗濯機の実現は社会的に大きな貢献をしたとは思うが、ボタンのプッシュ操作一つで何でも実現できるような文化的生活は人間の退化を早めるものになると思えてならない。センサーを頼りにする自動運転、自動ブレーキの車も然りだ。

    アナログ人間種族かデジタル種族かの違いは、機械は壊れるものと予知するか、機械の安全神話を信仰するかの違いだろう。

    私自身は、機械はいつか必ず劣化して壊れるとしか思えないので、アナログ種族である。
    でもだからこそ、人の「第6感」の重要性を理解している自負を抱いている。





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